「保育園落ちた日本死ね」の本当の意味
2016年 12月 07日
『シャイン』という映画があった。重い精神病を患いながら演奏し続けるピアニストの生い立ちを描いた話だ。この主人公のモデルであるヘルフゴッドの演奏を聴いた中村紘子は「素人臭い」と酷評していた。
それはともかく、シャインとは輝くのshineで、これをローマ字読みすると「死ね」になるから、輝くのではなく死ねだと言う皮肉は昔からあった。
そもそも、そのブログの「日本死ね」の意味は、今の政府の無策無能ぶりがひどすぎるので、これでは日本に死ねと言うようなもんだと批判しているのだから、書いた人が日本に死ねと思っているのではなく、政府や内閣にいる者たちが日本に死ねと思っている、あるいはそう思っているとしか考えられない、という意味であった。
それを、権力に媚を売るマスコミ人や芸能人が意味を逆にして騒ぎ、これに騙される人たちがいる。
また、そのブログは、オリンピックを安上りに開催して黒字にするつもりが失敗して無駄金を使い、それで予算がなくて保育園が作れず子供を預けて働くことができないという実態を批判をしているが、これは、こんなお粗末な政策では少子化がどんどん進んで国力が衰退するという問題を語っているのだ。
そして、このことを考えるきっかけとなった自らの体験を述べている。子供を預けたいので保育園に申し込んだが落選してしまったということだった。これでは生活していけない。政府の無能によるひどい現実だ。そういう話だった。
これ対し、それでも自分の生まれた国を悪く言ってはいけないとか言う人がいる。これは、まず、国=政府ではないことをわかっていない人がいるので、そこへ付け込み故意に混濁させて批判封じする意図があるためだが、あと、育児放棄や虐待があろうと親は親だと言い放つ人がよくいるのと同じことで、つまり他人の痛みならいくらでも我慢できるというわけだ。
つまり「保育園落ちた日本死ね」を非難する人たちには、誤解と曲解と悪意の場合がある。
by ruhiginoue
| 2016-12-07 14:38
| 政治