映画『評決』を日本人の多くが理解できないわけ
2017年 06月 25日
矢口洪一元最高裁長官は「22歳で裁判官になれるって、やはりおかしい。大学出て司法研修所に1年行っただけで,世間のことがわかるわけがない」と発言し、40歳以上の社会経験のある人から裁判官を選ぶべきであると主張しているが、そんなことが最高裁長官までやってようやくわかったことなのかという疑問というか呆れというかの声がある。
外国の例を見ると、弁護士として働いた経験のある人が裁判官になるのだが、日本では裁判官もキャリア制度で、辞めてから弁護士になる「法曹逆一元化」だから、世間知らずの裁判官が荒唐無稽な事実認定をするなどの問題は、とっくに指摘されてきたからだ。
外国の例を見ると、弁護士として働いた経験のある人が裁判官になるのだが、日本では裁判官もキャリア制度で、辞めてから弁護士になる「法曹逆一元化」だから、世間知らずの裁判官が荒唐無稽な事実認定をするなどの問題は、とっくに指摘されてきたからだ。
また、裁判官は専門知識があればよいから、一般常識は裁判員が受け持ち、これを拡充するべきという意見もある。専門知識があればいいわけではないが、社会経験があればいいわけでもなく、例えば大阪では校長先生を社会経験のある人から登用させたら滅茶苦茶になり、しょせん「維新」の連中が関わっていたからだという批判がいっぱいである。
そういえば、映画『評決』に描かれる裁判で、主人公の弁護士に反感をもつ裁判官が不公正な訴訟指揮をするけれど、この裁判官は「私だって弁護士の経験がある」と言う。
これに主人公が「それは腐敗した連中相手の交渉役じゃないか。今も相変わらずだ」と詰め寄る。これに日本では輪をかけようになるだろう。法曹一元化をしたところで、辞め判・辞め検に代わって、政治家や大企業の顧問弁護士から転じた裁判官が幅を利かせるようになることは火を見るより明らかだ。
これに主人公が「それは腐敗した連中相手の交渉役じゃないか。今も相変わらずだ」と詰め寄る。これに日本では輪をかけようになるだろう。法曹一元化をしたところで、辞め判・辞め検に代わって、政治家や大企業の顧問弁護士から転じた裁判官が幅を利かせるようになることは火を見るより明らかだ。
ところで、この映画『評決』は、少年時代に新宿の映画館で観たが、この当時よく一緒に映画を観に行った同級生は、興味が無いと言った。彼は、その前の時期に公開された洋画で話題になった『黄昏』『レッズ』『炎のランナー』などのアカデミー賞作品にもまったく興味がなく、当時の公開で観に行ったのは『ET』『遊星からの物体X』『ランボー』などで、アクションとSFの他はアニメしか観ない人だった。「だからお前はガキなんだ。彼女もできないんだ」と声に出さずに呟いたが、大人になっても同じだったから、趣味の問題だったのだろう。
しかしこの当時、まさか将来自分で医療裁判をやるとは想像もできなかった。SFが現実になることより想像できなかった。
ただ、『評決』を観た当時、結末に呆気に取られて理解できなかった。
かつて『12人の怒れる男』をテレビで見て面白かったので、同じ監督が陪審員をテーマにした映画を撮ったということで興味をもったから『評決』を観ることにした。
ところが、『12人』で陪審員たちは、被告人の人種がマイノリティである偏見を排し証拠と証言について論理的に検証して無罪の評決をする過程がスリリングだったのに、『評決』では決定的な証言を裁判官が否定したのに対し陪審員たちは原告の訴えを相当と認めるので、呆気にとられたのだった。
かつて『12人の怒れる男』をテレビで見て面白かったので、同じ監督が陪審員をテーマにした映画を撮ったということで興味をもったから『評決』を観ることにした。
ところが、『12人』で陪審員たちは、被告人の人種がマイノリティである偏見を排し証拠と証言について論理的に検証して無罪の評決をする過程がスリリングだったのに、『評決』では決定的な証言を裁判官が否定したのに対し陪審員たちは原告の訴えを相当と認めるので、呆気にとられたのだった。
これと同じ印象をもった人は日本には多かったようだ。あのときポールニューマンふんする弁護士は、最終弁論で陪審員たちに「あなたたちが法であり、正義を実行する稀な機会です」と訴えるだけだから、まるで、情に訴えたから逆転勝ちしたと誤解してしまいそうだ。実際にそう思ってしまった人たちが大勢いて、ネット上にもそういう意見がいっぱいある。
しかし、情に訴えて勝てるなら、『12人』を否定することになる。
この被告人はマイノリティだが、これで思い出す米映画は『アラバマ物語』である。グレゴリーペックがアカデミー賞の熱演をした弁護士は、人種差別がもっとも強い時期の南部で、周囲の偏見にも関わらず黒人の被告人を熱心に弁護するが、白人ばかりの陪審員たちは有罪にしてしまう。法廷ではどう見ても彼の勝ちだったし、白人女性が暴行を受けて負傷したのは父親のDVとしか考えられないのだが。
しかも、それを傍聴人たちの前で暴かれて恥をさらした父親から主人公は逆恨みされてしまう。
この被告人はマイノリティだが、これで思い出す米映画は『アラバマ物語』である。グレゴリーペックがアカデミー賞の熱演をした弁護士は、人種差別がもっとも強い時期の南部で、周囲の偏見にも関わらず黒人の被告人を熱心に弁護するが、白人ばかりの陪審員たちは有罪にしてしまう。法廷ではどう見ても彼の勝ちだったし、白人女性が暴行を受けて負傷したのは父親のDVとしか考えられないのだが。
しかも、それを傍聴人たちの前で暴かれて恥をさらした父親から主人公は逆恨みされてしまう。
このように、『評決』の陪審員たちは証拠と論より情緒に流されたのだろうか。もちろん違う。
よく映画を観ていると解るが、裁判官が証言を排除しろと言ったのはなぜかというと、証人が証言を裏付ける物的証拠としてカルテのコピーを取っていたが、コピーは改ざんできるので証拠採用しなかった判例があるからだった。
これに主人公は異議を申し立てて例外を求める。裁判官は異議を考慮するとしか言わず事実上の無視なのだが、これに陪審員が合わせないといけないのではない。
また、物的証拠がなくても証言が内容的に周囲の客観的事実と符合していれば信用できるし、そもそもどうしてコピーを取っていたのかというと、その証言をした看護師は事故があった時に担当医の圧力でカルテの改ざんをさせられ、後から問題になるかもしれないと思ったからで、なにも無いのにコピーを取っておこうとするわけがない。
また、物的証拠がなくても証言が内容的に周囲の客観的事実と符合していれば信用できるし、そもそもどうしてコピーを取っていたのかというと、その証言をした看護師は事故があった時に担当医の圧力でカルテの改ざんをさせられ、後から問題になるかもしれないと思ったからで、なにも無いのにコピーを取っておこうとするわけがない。
しかも、専門的見地からは、そのような事故がなんの原因もなく起きるとは考えられず、そうなると、予想外の出来事だったという弁解は責任逃れのために言っているとしか思えなかった、という前提がある。
さらに、看護師の女性の名を聴いた途端に、被告席の医師らは驚き一瞬狼狽していたし、その看護師は証言しながら、職を追われたことを涙ぐんで話した。これらの様子を陪審員たちは目撃している。これに対して、いくら判例を盾にして証言を排除しようとしても、無駄であろう。
だから主人公の補佐をしている先輩の弁護士は「証言の効果は変わらないよ」と言うのだ。
これらをちゃんと見て意味を理解できていないと、情緒的にしか感じないだろう。
そして特に肝要なのは、陪審員とは何かということだ。あの裁判官の横暴な態度と個人的感情に基づく偏向した訴訟指揮ぶりは、陪審員たちが直接目撃していて、それに反感も覚えているだろう。だから、官僚の独裁にならないよう市民がチェックするために陪審員がいるということである以上、裁判官の指示を無視して反対の判断をすることは当然である。
この認識を日本では多くの人がもっていない。陪審員制度が無くなって久しく、今は裁判員制度があるけれど、これも陪審員と違って裁判官を補佐するものでしかない。このため、映画『評決』をちゃんと理解できない日本人が大勢いるのだ。
by ruhiginoue
| 2017-06-25 16:25
| 映画