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by ruhiginoue

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 ここで、過去に何度もNHKを批判しているが、このような話が通じない人もいる。話が通じないというのは、意見が合わないのとは違う。
 例えば、こんなことがあった。前にホームパーティーがあったさい、酒盛りと料理と歓談で盛り上がっているところで、NHKの定時のニュースの時間だからテレビをつけようと言い出した人がいた。せっかく楽しく盛り上がっているのにテレビなんて、という雰囲気なのだが、どうしてもと言う。それなら一人で観ればいいのだが、そうではなく宴会を中断してみんなで観ないと駄目だと言い張る。なんでか。みんなでNHKのニュースを観て、同じ認識と考えになるのだ、と言う。それが国民の義務だとの趣旨のことまで言った。
 あほらしいので誰も付き合わなかったが、この人はほんとうに山奥の田舎に生まれ育ち住み続けているので、同調とか同化の願望が強く、ほとんど強迫観念という域である。このような人は、田舎に行くほど増える。
 つまり、肝心なのはみんな同じということなので、NHKの放送している内容は無関係なのだ。だから、NHKの報道を批判しても、そもそも内容がどうかという発想が無いので、意見が合うかどうかではなく、話が通じないのだ。
 これとは別の意味で話が通じない人もいる。NHKの批判をすると、「俺はNHK好きだからなあ」と言う。そう言うからには、批判されているような内容を自分は支持しているという意味なのか、というと、そうではない。まず、山奥の田舎の人のように、内容とは無関係に同調や同化の願望を満たしてくれる、という意味。また、話の様子から、NHKには民放より良質な番組があるのでよく観ている、という意味で言っているのだ。
 たしかに、NHKは民放より予算が潤沢なので、充実した番組を制作していたり、外国製の番組の放送権を買って流したり、ということがある。それで、民放とは違った長所がNHKにはあるということが言える。しかし、その半面、無駄使いを指摘されてもいるし、政治的な分野になると政府の意向に偏りがち、という批判を受けてもいる。
 だから、放送のあり方とか、放送局の経営の形態とか、いろいろなことで、どうなっているのか、どうあるべきか、などの話題に発展するわけだ。
 ところが、そういう発展をしない人もいて、漠然と「俺はNHKが好きだ」というだけで会話が終わってしまう。これでは、意見の相違とかいう以前に、ガッカリしてしまう。ストレスにもなるから健康に良くない。そうなると、話が発展する人とだけ話したくなり、そうでない人は避けることになる。そして、田舎に帰った同窓生たちとはどんどん疎遠になるのだった。

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by ruhiginoue | 2014-01-07 22:58 | 雑感 | Comments(7)
 大学生の時、民法の授業中に教授が言った。『ブラックジャック』を医学部の図書館に置いてはいけないだろうが、『ナニワ金融道』を法学部の参考書として大学の図書館に置いてもよいだろうと。
 それもわかる。手塚治虫は、『ブラックジャック』の連載中に、医学生から、面白おかしくしようとしてデタラメを書いている、と非難されたことがあるそうだが、『ナニワ金融道』には、人により異論はあっても、基本的に変なことは書かれていないからだ。
 また、法律の教科書に書かれていることが、単なる具体例ではなくドラマに取り入れられているので面白さとともに理解できる。
 例えば担保物件法で「滌除」(てきじょ)というのが出てくるのだが、言葉自体は洗い流すという意味で、法的には不動産の抵当権消滅請求のことである。これにまつわる学説には、存在そのものに否定的なものまであるということを含め色々と無味乾燥な記述を教科書で読み、試験に出た場合に備えて、意味内容とともに何度も書いて漢字を憶えた。
 これが『ナニワ金融道』では、地上げ屋をやっつけてビルを取り上げたうえ、抵当権者の資金が潤沢でないところにつけ込み、この制度を利用し、言い値で抵当権を抹消し、主人公の金融会社は念願の自社ビルを得るという展開が、スリリングに描かれる。
 また、『ナニワ金融道』の面白いところは、お金にまつわる話を通じて、人間の本質に迫るドラマであることだ。その中で、借金をする者を信用してはいけないという言葉が出てくる。そして、借金をしようという者は、善良な者であっても切羽詰るとえげつないことをしてしまうし、もともと善良ではない者が良い人を装い、そのさい真に迫った演技をすることがある、などの現実が描かれる。
 この観点によって解釈すると、当時は不可解だった自分の体験を納得できることがある。例えば、バイトの求人に応募したさい、採用して欲しいため、苦学していて学費のためだと言うと断られてしまうことがよくあり、反対に親のすねかじり学生が小遣を欲しいという感じでいると簡単に採用してくれることがよくあった。これは、金に困っていると横領などをするのではないかと疑われたのかもしれないし、いまどき学費で子供に苦労させる親の家庭で育った者は、なんとなく敬遠したいと思われたかもしれない。
 どうであれ、困っている人に疑いをかけるのは嫌らしいことである。ところが、そういうことをしても不当ではない、そういう疑いや心配をしないといけないような人が、いることを目の当たりにしたら、仕方の無い現実なのだろうと思わざるを得なかった。
 言うまでもなく、本来は真面目な人も、切羽詰ればえげつないことをしてしまう、というのは悲しい現実だ。それとは違い、真面目で誠実そうにしていても、それは騙すためにそう見せかけている、という人もいる。ただし、そのような人は普通、相手によって態度を変えるものだ。だから嘘の真面目さがすぐバレてしまうものだ。
 それとも違い、一時的ではなく常に困っていて、その訳とは、いろいろな仕事に就いたが何一つ務まらなかったからで、だから誰に対しても、利用してやろうとして誠実そうにみせかけていた。そういうことであったと判明した人がいるのだ。そして、世話になった人たちに対して、これ以上は利用できないと思ったら途端に態度が豹変する。そして必ず恩を仇で返す。暴力をふるわれた人までいる。
 ここまで酷い人は珍しいだろう。だから、そのような人がいるという現実を体験から知っている人は、多くないだろう。でも、暗示的に認識している人は、もっと多いはずだ。だから多くの人たちが警戒するのだろう。
 その具体例それも最悪な者を、どう始末をつけようかと、仕事の関係者で話し合っている。その問題の男の母親は看看護師だそうで、息子の言動が異常なため心配してはいるということだが、成年後見人になるなどしてもらえないかと苦慮している。
 こういうことがあるので、青木雄二が指摘したとおりだと実感というか、まさに思い知ったのだった。


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by ruhiginoue | 2014-01-06 22:55 | 司法 | Comments(1)
 羽仁五郎というタレント学者の先駈けがいた。彼の著書で最も有名なのは『都市の論理』だろう。これを古本屋で見つけて読んだ。背表紙は日焼けして色あせ、紙はヨレヨレでクタビレタという感じで安かったが、読めればいいと購入し、読み終わったら捨ててしまった。主に講演の収録だからだろうが、興味をそそる内容が平易な文体で書かれていて、読み返さなくても憶えている。売れたのも解かると思ったものだ。
 これには、いろいろ興味深い内容があったので、大学の政治学のレポートで触れたら、提出したのち返却されると、その部分で担当の教授に「あーはーはー、懐かしい名前だー」と書かれていたのを、今も忘れていない。
 この『都市の論理』の中に、羽仁五郎が世界各地の社会主義国の政権与党機関誌を購読しているという話があり、その内容に彼はマルキストなので原則として好意的なのだが、それでも北朝鮮の政権与党の機関誌だけは駄目だとしていた。なぜなら、北朝鮮の政権与党機関誌には自慢が多いからで、自慢する者の言うことは信用できないということだった。まあ、これは常識からも同感だろう。

 ところが、最近は日本も北朝鮮化しているのだろうか。本屋に積まれている本に、タレント学者・竹田恒泰の『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』というのがある。日本では、自信があるほど謙遜し、自画自賛は控える、というのが美徳とされてきた。そういう伝統を、この元皇族子孫という人は知らないらしい。
 かつては、70年代末に『ジャパン アズ ナンバーワン』という本が外国人によって書かれて話題となったのだが、今では他から言ってもらえなくなったので、恥ずかしげも無く自分で言うようになってしまった、ということなのだろう。日本も堕ちたものである。
 また、竹田恒泰の著書に『日本人はいつ日本が好きになったのか』という本もある。言わなくてもよいことを、言わないといけなくなってしまった、ということなのだろうが、そもそも、好きなのはけっこうだけど、相手によっては好かれて迷惑な場合もある。こんな程度の低い国民に愛国者を自称されたら国は迷惑なので、そういう人は、愛するのは勝手だけど黙っていて欲しいというものだ。その観点で、『竹田恒泰はいつ華原朋美を好きになったのか』という本を出したほうが面白そうだし、絶対に売れるはずだ。


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by ruhiginoue | 2014-01-05 19:01 | 雑感 | Comments(3)
 このような週刊誌の吊広告があるため、電車に乗るのが嫌になるという人は多い。

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 戦争を挑発したり、差別意識を垂れ流したり、権力に媚びて弱いもの虐めしたり、悪ふざけもいいところで、これでは下品な粘着サイトと変わらない。

 また、右左関係なく特定の何かを狙い撃ちして民衆におもねるか、子どもも女性も乗ることを考慮せず卑猥な記事の見出しを書き連ねてあるだけ。
 まるで汚物のような週刊誌の見出しを毎日のように見せられてはたまらないし、子供と電車に乗る度に、子供に見せたくない日本の姿だと思う。それが、下品極まりない中吊り広告だ。

 そう言っている人たちの率直な意見は、実に正常な感覚によるものだろう。

 特に、「新潮」と「文春」をみていると、この国の中枢いる者たちが、どこを貶めたいかわかる。なぜ貶めたいかを考えるのが毎週の習慣となっている、という人もいる。
 そうした週刊誌の下品な物言い。そんなものが、公共空間で幅をきかす社会というわけだ。その見出しは派手で、記事を読むと中身が乏しい。そうやって売ろうとしてもいるのだろうが、電車吊広告は費用が高額であるのに、発行部数からすると見合わない雑誌まで吊広告をだしている。つまり見出し自体が政治的意図を持った宣伝となっていて、雑誌を売る広告ではなく政治的な宣伝であり、その費用は読者が購入するさいに支払う代金とは別のところから出ているのだろう。これは昔から言われてきたことだ。実際に、そうした雑誌には大企業の広告や政府広報がいつも大量に割り込んでいる。

 この最たる存在である週刊新潮の元編集者である亀井淳(故人)氏が、内部告発本『週刊新潮の内幕』を著していたが、この発行元は創価学会系の第三文明だった。それも、公明党が自民党と組んでからすっかり変節した。

 こうしてみると、前に、通勤のさい戦争反対のゼッケンつけて電車に乗り続けた人が、公共の場に相応しくないという非難をうけたことがあるけれど、それを言うなら、電車内の雑誌の吊広告のほうがよほど問題であろう。誰でもできるゼッケンとは違い、吊広告は資力のある一部の者と勢力しか出来ないのだから。
 なので、放送法のように社内吊広告も、政治的平等についての規則を作るべきだろう。

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by ruhiginoue | 2014-01-04 21:35 | 社会 | Comments(18)
 都知事選に舛添要一を自民が担ごうとしているらしい。彼は自民党にとって裏切り者なのに。この点では民主にとって無関係だから、推そうという人たちがいる。そして民主党は、ここでも自民党と変わらないとして、また支持を失う。
 しかし、舛添は、歪んだ俗なエリート意識で露骨に他人を見下してばかりいるのだが、そんな奴の何が良いのか。それは、そんな奴を支持することで、自分が見下す側になったと錯覚できるからだろう。そういう人はかなりいる。
 また、女性で、舛添要一が好きだという人は多い。これが石原慎太郎なら、今は爺様だけど昔は男前だったから、まだわかる。彼が大田区選出の国会議員だったころ、当時の目蒲線に乗っていたら下丸子から乗ってきた主婦たちが、選挙演説していた石原慎太郎を見たと話し「素敵だった」などと言っているのに出くわしたことがある。
 そんな人なので、あの橋下徹に頼まれて「維新」に協力したら、選挙公報の写真が修正しすぎなので話題となり、例えば講談師の神田香織さんが「芸人だって、ここまでやらないよ」と言っていた。
 ところが、どうして舛添なのか。それは、そのまんま東と同じ。男前は外見に騙されそうで信用できないけど、舛添や東国原は不細工で早くから頭髪も無くなってしまっているので、それを補おうと努力しているはず、と思う。
 だから、実はちゃんと観察していると彼らの言動は酷いものなのだが、外見が駄目なぶん努力して中身が良いと誤解されるのだ。実際にそう言っている女性は多い。
 こういうのは女性だけではない。男性だって、何の根拠もなく、美女はツンケンしていて、ブスは優しい、と言っている人がいる。それで、美女は反感を買い選挙で当選できないと思い込み、当選すると「美人すぎる議員」と言い出すのだ。
 
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by ruhiginoue | 2014-01-03 19:29 | 政治 | Comments(2)
 先日の年末ジャンボ宝くじで思った。宝くじそのものにある様々な議論ではなく、その当選番号の決め方だ。これは、不正がないように公開の場でダーツのようにしているのは周知のとおり。
 これと同じようにして、訴訟の裁判官も決めたらどうか。そして、裁判官が異動や死去や傷病などで交代するさいも、同様にする。
 そうすれば、裏工作で不正専門の裁判官があてがわれるとか、悪意の裁判官が途中から割り込んでくることがないので、少なくとも今よりは公正になるだろう。
 前に実例を出したが、(こちらを参照)この、東京地裁の医療集中部で部総括判事だった貝阿彌誠裁判官は、医療裁判を専門にしているとしながら、いつも悪徳医師側に偏向した訴訟をするので、馴れ合いか買収だと昔から言われ続けてきた。
 そんな彼が、自分は専門だからと途中から割り込んだ訴訟の中に、実は医療裁判ではない、という例がある。医療裁判で敗訴した病院の医師が、その腹いせに患者の個人情報をインターネットに漏洩させたというものであった。
 そして、それまでの裁判官の公正な訴訟指揮を強引に逆転させ、訴訟を途中で打ち切りいきなり判決としたうえ、個人情報を漏洩させても気づかない人が多いから違法ではない、という非常識な内容だった。
 これが露骨な不当介入であることは、説明を要しないだろう。
 こういう裁判官がいるから、たちの悪い医師たちが反省もせず同じことを繰り返し、人命が合法的に奪われ続ける。だから、このような裁判官のほうが強盗殺人犯よりも害が大く悪質である。
 それを少しでも改善するためには、担当裁判官を決めるには宝くじ当選番号のように公開でダーツとしたほうが良い。今よりは少しだけど確実に良くなるはずだ。

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by ruhiginoue | 2014-01-02 21:47 | 司法 | Comments(0)
 日付が変わって、年も変わったけれど、何かあるかというと何もない。

 ところで、映画『風と共に去りぬ』の最後でTomorrow is anotherday.と主人公が言うのを、日本公開直後は「明日は明日の風が吹く」と訳していたが、これは本来「時間が経過すれば情勢が変わる」という意味だから、題名とひっかけているだけで誤訳だという指摘され、かなり前から「明日に希望を託して」と訳されてきた。「明日がある」「今日までとは違った日にしよう」との意気込みというわけだ。

 これに対してTomorrow is just anotherday.という言葉がある。これは丁度のjustが付くことで、それ以上でも以下でもない、つまり「ただの」ということで、「明日なんてただ日付が異なるだけ」だから何も変わらないという諦めの意味になるらしい。そういう歌詞がある。

 この語呂合いが正しい解釈なら、justが付くか否かは意志次第ということだろう。日付が変わっただけでも、投資していた配当があったり、定期預金や保険が満期になるという人もいるし、借金が時効になったので夜逃げ先から自宅に帰れる人もいるだろう。執行猶予が取れたから車の運転をしようとかデモに参加しようという人もいるだろう。
  
 では、今年はどうするか。
 
 「まだ、この世に借りがある」とはワーグナーの言葉だったと思うが、彼は自分が充分に認められず絶望して死のうとも考えたらしく、墓の碑銘は「才能があって努力もしたのに、ものにならなかった無様な男、ここに眠る」にしようと思っていたけれど、まだしなければならないことがあるので死なないでおこう、ということのようだ。
 これは、これまで色々な人から世話になってしまい、その受けた恩を返す責任がある、という解釈もできるが、よく報復するという意味で「この借りは必ず返す」と言う場合もあるので、怨恨とか復讐を果たすまで執念で生きるということでもある。
 これについて、自分も同様だ。どちらの意味でも。

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by ruhiginoue | 2014-01-01 16:51 | 雑感 | Comments(3)