井上靜の気楽な日誌です。気楽にコメントしてください。おたよりも気楽にe-mail:ruhiginoue@excite.co.jpまで


by ruhiginoue

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 「なあ、インターネットって知っているか」
 と、菅原文太が訊ねると、一緒に酒を飲んでいる松方弘樹は一瞬間があってから、
 「ああ、知っているよ」
 それで菅原文太は感心したように、
 「ほう、すごいな。今度教えてくれよ」
 すると困惑した表情をしながら松方弘樹は、
 「ああ、いいよ」
 ぎこちないので、菅原文太は笑って、
 「あっ、知らないで言ってやんの」
 これはインターネットが普及する前の出始め時期に放送されたテレビCМだった。これについてうちの母親が「笑っていられない」と言っていた。

 また、パソコンの宣伝ではアニメに坂田利夫の声で「触ってみたいけど、ちょっと怖い。訊いてみたいけど、ちょっと恥ずかしい」と言ったり「いまさら、訊けるか若造に。今日もデスクで貝になる」と歌っているCМが放送されていた。  

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 そしてインターネットを始めた知人が出始めたので、それならとパソコンを購入した。このころは持っていない人の方が圧倒的に多かっただろう。最初に購入したのはCOMPAQだった。
 このあと先に始めていた知人から、「買ったと同時にどんどん憶えてすごい」と言われたのだが、実は高校生に教わっていた。こういうことは後の世代の人に教わるものだ。

 そして、菅原文太も松方弘樹も亡くなり、COMPAQはHPに買収され、日本の会社のものはだいたい振るっておらず、Lenovoなどのほうが良くて主に使っているが、こんな会社が台頭してくるとは予想できなかった。
 そして誰でもインターネットなどやって当たり前のようになったが、依存症には注意しなければならない。先日は地震があったが、スマホ取り出して速報というだけならともかく「あっ地震だtweetしなきゃ」と思ってしまうようだったら要注意である。

 

  


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by ruhiginoue | 2017-12-31 16:02 | 雑感 | Comments(2)

まだある蛍光灯と点灯管

 スーパー最後の営業日で混雑していたが、それは主に食材を買う人たちだった。しかしよくある店と同様に家庭内設備の消耗品も売っているので、それを買う人もいた。自分もその一人だった。
 それで照明関係が並んでいるところで蛍光灯と点灯管を買った。もちろん点灯管とはスターター形の蛍光灯を点灯させる放電管のことである。グロースターターやグローランプとも呼ばれる。
 もう蛍光灯の主流は消費電力が少ないインバーター式となっていて、残るは流し台など一部である。その流し台だけ自宅も従来型器具なので、交換のため時々買うことになる。他はすべてLED照明となっている。

 そうしたら、年配の男性が買いに来ていて、解らないと店員に訊ねているのだが、これと同じものが欲しいと出して見せたのは黒くくすんだグロー方式点灯管であった。この生産は次々と打ち切られ、今の生産は電子点灯管へ移行している。だから、それは無いと店員に言われていた。
 この男性は、その違いの意味を知らなかった。それで教えてあげた。そのグロー方式点灯管はどこの業者も製造を中止していて、電子点灯管に切り替えているのだと。しかも蛍光灯や電球型蛍光灯と共に、交換用途に絞って生産が継続されているものだ。つまり蛍光灯は主にインバーターになっているうえ、蛍光灯も交換用だけということだ。現にその男性も、流し台などで使用する15ワットの蛍光灯とともに点灯管を買おうとしていた。

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 またグロー方式と違い電子点灯管は一発で蛍光灯を点灯させる。このおかげで蛍光灯を劣化させ難い。 何度も点滅してからつく蛍光灯は昔のものだ。電子点灯管はやや高額だが二百円くらいの違いで、はるかに長持ちするからむしろ安い。それに早くつく。
 それで、売り場には蛍光灯が10ワットと15ワットのものがあり、だから点灯管も10ワットまでのものと10ワット以上30ワット以下の二種類が置いてある。

 それを説明し、これだと教えたら、その人は喜びながら「老眼だから字が小さくてよく見えない」と言った。
 それより、よくいまどき生産していない点灯管を、この人は自宅で使用していたものだと不可解だったが、おそらくたくさん買い置きしていたのだろう。
 だから買い置きも考え物である。生産中止になる前に買いためておいても、むしろ劣化が早いわけだし、いずれそれ自体が時代遅れで使えなくなることもあるのだから。

 いずれ、自宅で唯一の蛍光灯である流し台も、蛍光灯ではなくなるだろう。



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by ruhiginoue | 2017-12-30 18:36 | 雑感 | Comments(5)
 先日、交番で仮眠をとっていた警官が物音で目が覚めて出ていくと交番の窓ガラスが割れていて、そこにいた男が割ったと認めたので器物損壊の現行犯で逮捕したそうだ。
 この男性は年齢が三十代で、酒を飲んで酔っていたが、用事があって交番を訪ねたのに誰もいなかったので怒って窓ガラスを叩いてしまったらしい。

 この報道で、緊急の場合もあるのだから警官にはすぐ出てきてほしいという人もいるが、そうはいっても警邏などで警官が出かけていて交番が留守の場合があるという指摘も。この場合は緊急連絡用の電話が設置してある交番ならかけることができる。これで道を教えてもらった人もいる。地図がなくても説明がうまければ判るということだ。

 このように酔って窓ガラスを割らないように注意しなければならないことと言えば、前にある人の知り合いがやはり酒を飲んでいて大失敗したという話をしていた。
 それによると、その人はファミレスで食事をしたついでに酒も飲んだそうだ。ファミレスという店は、酔っ払いに長居されると厄介だし、自動車で来る人もよくいる。もしも客が帰りに酒気帯び運転して警察に捕まったら状況によっては飲ませた店も責任を問われて業務停止処分食らいかねない。だから品切れとか言ってあまり飲ませないようにすることがある。

 また、ファミレスは駐車場で喧嘩などもめ事になることを恐れてもいる。そして、その人の知り合いは、酒を飲んでその量は大したことないがほろ酔い気分で調子に乗りファミレスの駐車場で踊りだし、そのさい足を振り上げたら履いていた革靴の底が厚くて固くて重いものだったから脱げてしまい、かなりの勢いでふっ飛び、店のガラスにぶつかり衝撃でヒビが入ってしまったそうだ。
 あの、よくある店の大きな窓ガラスだから何万円もする。弁償させられて大損したとのこと。しかし負傷者を出してはもっと深刻な事態であったから、まだよかったというべきだ。

 ということで、酔っているときは窓ガラスに注意すべきである。




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by ruhiginoue | 2017-12-29 19:24 | 社会 | Comments(1)
 1995年の東京都庁爆発物事件で殺人未遂ほう助罪に問われたオウム真理教の元信者・菊地直子被告の上告審で、最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)は裁判官5人全員一致の意見で検察側の上告を棄却する決定をしたとのこと。
 これで、裁判員裁判で懲役5年とした1審判決を破棄して逆転無罪を言い渡した東京高裁の2審判決が確定する。

 この裁判で菊地元信者は、事件で使用された薬品を運搬したことを認めながらも、しかしそれが爆弾の原料とは知らなかったとし、無罪を主張した。
 そして最高裁の小法廷は、有罪とした一審の判断について「事実認定で飛躍や過剰な推認がある。不合理と言わざるをえず、破棄を免れない」と批判。この地裁判決を覆した高裁判決については「地裁判決の事実認定の不合理さを具体的に指摘しておらず問題だが、無罪とした結論は是認できる」と支持した。

 かつて最高裁は、裁判員が参加した裁判の認定について覆すには、それが経験則や論理に反していることを具体的に指摘しなければならないと判示していた。なので、その点を二審判決は欠いているが、結論には影響しないということだろう。
 また、それが被告人の利益となる結論であるから、結果が正しいならよしとすることに理があるということだ。

 こうして、結局は無罪が確定したが、これまでマスメディアは警察が疑いをかけた段階で犯人と決めつける報道をしていて、これが今また批判されている。単に結果論ということではなく、そもそも最初から犯人視する報道は許されないので、マスメディアは批判されているのだ。
 それに、この問題とは別に、前からずっと、テレビはこの事件の扱いで視聴者から批判されていたのだ。この元信者が嫌疑をかけられた当時から、陸上選手として活躍していた写真とともに「走る爆弾娘」とワイドショーが騒いだためである。
 これには多くの視聴者から「テレビは不真面目だ」と批判が起きていた。面白おかしくするつもりだったのだろうが、これは深刻な事件であるのだから、そういうことをしてよい話ではないし、そもそもそんな悪ふざけをしたところで、ちっとも面白くない。

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 そして当時から、新聞のラジオテレビ欄の投書欄に載った視聴者の意見でも指摘があった。悪ふざけならとんでもないことだし、こんなことをして面白いと本気で考えているのだとしたら、テレビ番組の製作をしている人たちは視聴者を舐めているかバカにしているかだ、と。

 このオウム真理教事件のあたりから、テレビがつまらないうえ不愉快だとよく言われるようになり、そしてしばらくしてインターネット時代が到来したら、テレビを全く見ない人ばかりになったのだ。




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by ruhiginoue | 2017-12-28 20:06 | 司法 | Comments(0)
 12月19日の朝日新聞デジタル編集部は「北朝鮮の核実験施設を整備する担当部局の責任者が粛清されました。核実験の遅れなどの責任を追及された可能性があります」と見出しを付けていた。
 だが本文は「粛清されたと、軍出身の脱北者が証言した。処刑されたとの未確認情報もある」であった。つまり、あくまで証言した人がいるという未確認情報で、そこから推測している記事なのに、見出しは断定している。
 こういうのは不正確で不適切である。

 また、「天安門事件」について英公文書が公開というAFPの配信記事だが、こう書くと、天安門広場での周恩来総理の追悼集会で、今日本で問題の安倍昭恵夫人のように毛沢東夫人への批判が巻き起こり、これに危機感を抱いた毛沢東夫人の差し金で軍隊が集会を蹴散らした事件のことになる。それでなければ「第二次天安門事件」とすべきである。
 そして、この事件について、軍隊が「民主化運動」を弾圧したとAFPは記述するが、いつもこの記事のように、欧米および追従する日本のメディアは、非欧米ないし欧米と敵対する国でのことなら「民主化運動」と表現し、欧米にとって自国および友好国または傀儡政権でのことだと「反政府運動」と表現する。
 これは客観性を欠き恣意的で不適切であるから、統一すべきだ。

 そして、フジテレビに出演した武田鉄矢の発言について、ライブドアニュースの見出しが不適切である。「武田鉄矢、反権力や政治批判で『カッコよがる風潮』に苦言」とあるが、これには「どこにそんな風潮があるのか」と非難ごうごうであり、それは実態を具体的に指摘せず、その根拠も無いためで、だから武田鉄矢が「に苦言」ではなく「と中傷」にすべきである。

 これらはどれも、どちらの肩を持つかという意見の問題ではなく、現実を正確な言葉で一貫性をもって表現しているか否かの問題である。




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by ruhiginoue | 2017-12-27 17:43 | 社会 | Comments(0)
 松本清張の小説『鬼畜』がまたテレビドラマ化された。
 この話はフィクションであるが、モデルになった事件は実在したそうだ。

 この原作と映画化では、主人公の印刷会社で火災があったり大手に顧客を奪われたりで商売が傾くことが発端だけれど、2000年のテレビドラマでは、小規模印刷会社の仕事なら誰でもパソコンで簡単にできるようになってしまい経営難に至る設定であった。
 これについて、放送当時、印刷会社で働いている人に聞いたら、どこもそんな感じになっていると言っていた。

 その前に『鬼畜』は、よく松本清張を映画化している野村芳太郎監督で映画になっていたけれど、ここで主人公の妻に扮した岩下志麻の演技が話題だった。夫がひそかに妾に子どもを産ませていたことを知って激怒し、しかも妾から産まず女よばわりの侮辱まで受けたため、妾の子どもにつらくあたるどころか、ほとんど虐待というべき扱いをする。この場面が凄まじい。
 この映画が公開された当時は子供だったし金もなかったから映画館に行けず、のちにテレビで観ていたのだが、その場面で、うちの母親が「赤ん坊がほんとうに泣いている」と言っていた。

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 この演出のため、野村芳太郎監督は、ふだん馴れ合っているいると演技の時につい手加減してしまい迫力が損なわれるから、子役たちと談笑などしてはいけないと厳命し、それに岩下志麻は従ったのだが、子役たちにトラウマとなってないかと心配になり、その子役たちが成人してから事情を説明したと言う。

 やはり岩下志麻が大役で出演したドラマ『独眼竜政宗』では、豊臣秀吉役の勝新太郎の提案で、伊達政宗役の渡辺謙と、最初に挨拶を交わしたあとは政宗と秀吉が対面する場面の撮影まで会わないようにしていたそうだ。
 こうした話は他にもいろいろあり、挙げていたらきりがないほどだ。(仮面ライダーV3で宮内洋は山口暁から「普段から視線を外すよ」と言われた、など)

 このように、俳優が演じるさいも気を遣うのだから、大相撲で貴乃花が、他の相撲部屋の相撲取りと飲み会などしてはいけないと言ったのも、勝負の世界なのだから当然だろうし、マスコミ関係者が政治家と懇親会をして、ごちそうしてもらうのは論外であるし、割り勘だったと言い訳するのだってとんでもないことだ。




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by ruhiginoue | 2017-12-26 16:15 | 映画 | Comments(2)
 生徒に便器を素手で掃除させる公立学校が批判されている。提唱したのはいわゆるブラックで悪名高い企業らしいから、それも批判される一因だろう。不衛生なので保健所が指導してやめさせないといけないことだし、そもそも、こんなのは美化運動でも教育でもなく、嫌がって当然のことを無理強いすることで服従させることしか効果がないから、なるほどブラック研修と同じ発想というわけで、当然ながら問題になるのだ。

 もともと、便器を素手で掃除することが最初に話題になってテレビでも取り上げられたのは日生学園だったはずだ。この全寮制私立校は芸能人のダウンタウン浜田が卒業していて、彼も脱走を試み失敗した生徒のうちの一人だそうだ。
 ここは制服着用とスキンヘッドを強いられオシャレは一切できず、娯楽も自由な時間もない。小遣いは使えず出されたものしか食べられず菓子などとんでもないことで、文具の購入でさえ教師の許可が必要という徹底管理統制だった。
 つまり学校というより刑務所であり、それで脱走やストレスからのいじめ学内不審死など問題が多発し、内部告発も相次いだ。力づくで押さえつけるために職員は体格がよくて腕力が強い者を多く採用していて、そのなかには教員免許を所持していないものが多数いたことが疑われている。

 そして、その後は名称を変え刑務所よりは学校らしさも出るようにしてイメチェンしたが、本質はあまり変わっていないともいわれる。
 こんな私立校の実態を知って自分から入りたがる者がいるわけがなく、親も普通なら入れようとはしないが、そこへ無理やり入れられる生徒の多くは不良であった。だから、教育の内容が服従であり、それを仮に是としても学校教育としてはあまりに非常識であるが、なぜかというとそれは実質が懲罰であったからだ。
 これと同じことを一般的な学校で行うなど、とんでもないことであることは言うまでもないだろう。

 また、日生学園でいじめが蔓延り不審死などの事件まで起きたのは、ストレスのためであり、それしか楽しみがないためである、と指摘されていたが、これも当然のことだろう。
 そうしてみると、こうした一部の極端な学校や企業だけでななく、日本では全体的に学校でいじめが当たり前のようにあり、それがさらに職場にも及ぶのが実態だから、日本がつまらない国・社会ということだ。そうでもしないとストレス発散できず、ほかに楽しいことがない。それが日本の現実ということだ。




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by ruhiginoue | 2017-12-25 19:07 | 社会 | Comments(0)

そもそも姓は必要なのか

 選択的夫婦別姓制度について、「選択的」が付いている意味を理解できない人がいて、夫婦の姓がみんな違うようになると勘違いして反対しているけれど、それは論外として、他にも勘違いして「家族制度が崩壊する」と大げさなことを言う人までいる。姓をみんなが名乗るように決めたのは明治時代のことで、家族制度とは関係がないし、皇族には姓がない。

 この明治時代にいい加減だったため、姓に多様性が乏しくなり区別できないことがよくあって、かえって不便になっている。とくに北海道では役人が仕事を怠けていて、あとから慌てて姓を決めたため特にアイヌ民族は同じ姓ばかりになってしまった。だからあの萱野茂氏が、特例で改姓できるようにしてほしいと訴えていた。
 ところが、姓は個人だけでなく家族にも関わるので、庭裁判所は改姓をほとんど認めない。よほど読みにくい漢字とか不穏当な漢字とかの場合だけである。
 しかし、今では管理が行き過ぎているほどだから、改姓で混乱することなど皆無と言っていい。「マイナンバー」なんてやっているのに戸籍の姓なんて意味が無いという現実を突きつけても、それに家庭裁判所が対応することはない。勝手にやったら上から生意気だとみられるので、最高裁が違憲とするか国会で法改正されるかするまでは逃げまくるのだ。それが日本の官僚組織である。

 もともと、日本で本当に由緒ある姓は「平」「源」「橘」「藤原」だけと言われれ、ほかはあとから作ったものだ。それで木下藤吉郎は羽柴秀吉に姓名を変えたあと、平秀吉と勝手に名乗ったり、藤原一族の独占だった関白の地位を朝廷に要求するため藤原を勝手に名乗ったりもして、そのあと豊臣の姓を作って名乗ることになり、その死後は大阪冬の陣と夏の陣で豊臣家が滅亡ということは周知のとおり。
 このような権力と権威付けの都合のために姓が必要だったわけで、それを明治時代に全国民が名乗り身分階級をいちおう否定して封建時代を終わらせる方便の一つとしたのであるから、そもそも姓それ自体が必要なのかという疑問がある。秀吉の時代の豪商ルソン助左衛門は、東南アジアとの交易で財を成したので、その貿易の地が姓のように呼ばれていたけれど、姓ではなく、それで何も不都合ではなかった。

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 また、かつて宮崎駿は風の谷のナウシカについてレオナルドダヴィンチと同じだと言っていた。住んでいるところと名である。ヤクザが「三ノ輪の」と呼んでいるのも同じだと宮崎駿は言っていたが、あのゴッドファーザーことドン・コルレオーネも、出身地をアメリカ移民局の役人が間違って姓にしてしまったのだった。水木しげるは、水木というところに住んでいた時に、水木の人から転じて水木さんと呼ばれるようになったので筆名にしてしまったと生前説明していた。
 このように住んでいるところが姓になる場合がよくあり、逆に住んでいる人の姓が地名になる場合もある。例えば井上とはもともと井戸の上手に住んでいる人という意味だが、埼玉県の飯能市には井上という地名があり、ここは山の中に井上という家が何件もあってみんな親族らしく、このため井上さんが住んでいるところと言われているうちに地名と化したらしい。

 だから、何処の誰という言い方があるけれど、それでわかるのだから名だけあればよくて姓は無くてもいいのではないか。
 それに、姓で混乱することがある。前にある女性の芸能人が学歴詐称しているとマスコミに取り上げられて、その情報の素とはある興信所だったが、いわゆるお嬢様学校を卒業した年度の卒業生名簿に、載っているのに載っていないと勘違いされ、それは親の離婚と再婚で姓が変わっていたのに気づかなかったという実にお粗末なものであった。
 あまりにひどいので、この興信所は民事だけでなく刑事で告訴までされ、民事で何も争わず全面的に謝罪と賠償することによって解決した。
 これは、ひどすぎるお粗末ではあるが、こんな勘違いをする者がいるのも、なかなか変更を認めない一方で安易に変更を強要する制度になっているためだ。

 ということで、姓の変更を強いられると大変であるから選択的夫婦別姓制度は必要だろうが、姓それ自体が不要ではないだろうか。




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by ruhiginoue | 2017-12-24 15:37 | 社会 | Comments(5)
 世界の、大統領や首相など頂点の政治家や、大企業を経営する実業家や、有名な芸術家とか売れっ子の芸能人や、華やかに活躍するスポーツ選手など、バリバリと仕事をこなしたりしている人たちは意外と小食であるという話を日刊ゲンダイが書いている。
 そして、やはり日刊ゲンダイだから、安倍総理が食ってばかりいるとこき下ろし、これは少々こじつけという感じがする。

 もちろん食べ過ぎてかえって身体の働きが悪くなることはあるけれど、必要な栄養を摂らなければ活動が満足にはできない。日刊ゲンダイが例として挙げている人たちの他には、同じ分野で大活躍する人が、それゆえ食べる量も多いという例もたくさんある。
 それぞれの体質や活動と食事の内容とのかかわりなど総合的に観察しないと、小食と大食とではどちらが良いかなどわからないし、そもそも食べる量の大小とはどの程度のことなのかも明確ではない。

 また、小食だと仕事バリバリになるのではなく、仕事バリバリだと、まず飯を食う暇がないし、充実していると旨いもの食いたいとか沢山食べたいとか思わなくなるので、逆ではないだろうか。物事がうまくいかないとか楽しくないとかでは、やけ食いもするものだ。
 これは、かつて話題になった『寂しい女は太る』という本の内容と共通する。ここで指摘されていたのは、具体的にマスコミを通じ知られている女性を例に出して、精神的に不満足だと欲求不満を紛らわすために代替行為として食べるという実態であった。そして、一人でガツガツと食べているのはオナニーしているのと同じであると警告していた。

 それに、動物実験で明らかになったことだが、シッポに針を刺しっばなしにして、命にかかわらない傷だが常に痛みを感じているという状態にしていると、ひたすら食べ続けるようになり、これは気を紛らわそうとする行動であろうと推測されている。
 そして安倍総理の場合、やはり充足感がないので食べてばかりいるのではないか。親睦のためと称して会食で懐柔する目的があるとしても、あの食べている様子はみるからに不健康な感じである。

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 そんな知り合いがいた。その人は安倍総理の持病と同じ病気にかかっていたが今は健康だと言い、はたから見ても元気そうで身体に不安そうな様子はない。病気の時は入院したり大量に投薬したりでもなかなか回復せず、ところがある時から急に、効かなかった薬も効くようになるなどして良くなったそうだ。
 これは、親の呪縛から逃れたためだと言う。たまたま、障害者の施設でボランティアを求めているのに出会い、これに何気なく参加したあたりから良くなったそうだ。
 それまで、もしもそんなことをしたら親から叱られたらしい。自分の得にならないことなどするなと言うことだった。それを守ってひたすらエゴイストを貫いてきたが、たまたま出会ったボランティアで、自分のためより困っている人や弱い人の手助けをするというのが崇高で悦ばしいと感じ、それからというもの病気がどんどんよくなったそうだ。

 ということだから、安倍総理にも、親それ以上に祖父の呪縛から逃れて、政策を改めて健康になってほしいものである。



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by ruhiginoue | 2017-12-23 15:44 | 雑感 | Comments(2)
 ユニセフ事務局長が、日本の子どもの貧困率に懸念を表明したとNHKが報道している。同局のインタビューに答えてのこと。

 日本では、子供の貧困が指摘されても、そんな問題は存在しないことにされてしまう。実態とか現実とかを具体的に指摘する報道や運動があっても、屁理屈としか言いようがない難癖をつけて否定する。
 どうして、こんなことをする者たちがいるのか。政治の責任を追及されることを恐れての工作もあるだろうが、社会の在り方と自分の置かれた立場というものを考えたくない者がいるので、そんな人が強引にでも否定したがるのだろう。

 これは今始まったことではない。日本という国が落ちぶれて産業も経済も衰退し、それに対応できないほど社会の劣化が進んでいる昨今だからこそ言われているのかというと、そうではないのだ。だから昔から、子どもの貧困は否定されてきた。
 これは自分も小さいころ体験した。どんな現実があっても、多くの子供は脅されて「困っていない」と言わされたり「困っていないでしょう」と迫られて恐怖により頷かされてしまうものだった。

 また、そんな大人は、自分の子どもが、あれが欲しいこれが欲しいとおねだりすると、必要なくても買ってやるくせに、貧困家庭の子どもが文具など必要なものを買えなくても、そんなものは必要ないと言う。
 これだから、どっかのバカ息子の議員は、これまで無くてもよかった専用機を、のんびり飯を食ってから帰りたいので欲しくなったと言い出し、何十億円という予算が必要な航空機および整備費を出せとわめき、この一方では貧困対策もしないどころか逆にどんどん予算を減らしている、という政治がまかり通ってしまうのだ。

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by ruhiginoue | 2017-12-22 16:04 | 国際 | Comments(11)