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井上靜に関するblog(網誌)です。下記の著書を購入して支援を頂けたら助かります。下記の他は別人や海賊版なので買わないでください。Googleが誤情報を混ぜているので信じないで下さい。アマゾンのコメント欄に嘘の書評が書いてあるのは過日倒産した出版社の宣伝です。この種の輩に対抗する意味でも何卒よろしくお願いいたします。品切れのさいはご容赦ください。


by ruhiginoue
 前回に続いて食肉の話。

 朝鮮戦争では、初めてジェット戦闘機同士の空中戦となったが、これはアメリカ軍のF86戦闘機の圧勝だったそうだ。戦闘機の性能はほとんど変わらなかったが、アメリカ軍のパイロットは熟練していたのに対し、ソ連から供与されたミグ戦闘機に中国人のパイロットが乗った方では訓練が足りず、操縦技術に大差があったためだと言われている。

 また、ミグ戦闘機は交戦中に攻撃を受けてもいないのに墜落してしまったことがあり、これを目撃したアメリカ軍の操縦士は、その様子から、敵機は操縦士が気絶したようだと指摘していた。ジェット戦闘機の推進力による身体への重圧は強く、この負担に耐えかねて操縦士が気絶してしまったと考えられている。

 つまり、アメリカ人の操縦士にくらべて中国人の操縦士は体力で劣っていたということだ。これは、もともと東洋人が小柄であることが大きかったことに加えて、食べ物が違ったという指摘もある。やはり当時のアメリカでは精の付く物をたくさん食べられたが、戦後まもなくの中国の食糧事情ではアメリカのようにはいかなかったらしい。

 そして数年前に、各地で軍用機の撮影をしてまわっている人から、アメリカの基地へ行ったときの話を聞いたのだが、撮った写真を見せてもらったら、その中にパイロットの食事のボリュームがすごいのでそれも一緒に撮影したというものがあって、見たらステーキがバカでかく、朝鮮戦争の話を思い出した。
 これが普通に基地の食堂で出てくるというだけでビックリだが、それをアメリカ人のパイロットはペロリと平らげてしまったそうだ。それくらいでないと、ジェット戦闘機の操縦をする体力が維持できないということか。

 それなら、全人類が菜食主義者になれば戦争がなくなるかというと、ジェット戦闘機の代わりに巡航ミサイルということになるだけだろうが、肉を食べなければ環境破壊も食糧難も減ることは確実だから、そうなれば間接的には平和に貢献するはずだ。

 あのガンジーもそうだったが、非暴力主義の人で、殺して肉をたべることをせず牛乳なら、という人がいる。
 しかし、牛乳を受け付けない人もいる。自分はそんなことないと思っていて、よく飲んでいたが、次第に駄目になってきた。飲むと初めて飲んだ人のように発疹ができるようになり、次には飲むと下痢するようになってしまった。体質が変わってしまったのだろうか。
 

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# by ruhiginoue | 2015-11-18 17:42 | 国際
 肉が好きで食べてばかりいて病気になった加藤茶と石原裕次郎の話が前回だったが、そうした芸能人のことが気になったのは、自分の周囲にもそういう人がいるからだ、ということだった。その続きである。
 
 ある友達に、美味しいと評判のトンカツ屋の話をしたら、ぜひ食べたいと言うので連れて行ったところ、出てきたロースかつ定食を「これは美味しい」と言って彼は食べ始めたが、早く次々つまみあげ口に放り込み、漫画などの表現でヒョイパク・ヒョイパクというのがあるけれど、まさにそんな感じでトンカツだけ一気に食べてしまい、ごはんとみそ汁とキャベツの千切りがまるごと残ってしまった。

 この話を後日に彼の配偶者に笑い話のつもりで言ったら、笑ってもらえずに深刻な顔をされてしまった。実は、このところ彼は体の具合がよくなくて、医師に相談したら生活習慣病という診断だった。それで薬を飲んでいるが、食生活が原因だから改善するよう医師に指示されているのに、それでも肉ばかり食べたがるから困っていたそうだ。
 そうなってしまうのは、あの勢いに任せるような食べ方のためだろう。そんな食べ方をする人が、肉ばかりという人には多い。

 その後、彼はオリーブやアボカドを毎日のように食事に出されていると言っていた。なるほど、これはコッテリしたものを食べたような感覚が得られる。それに、殺生をしないですむ。

 そういえば、『ウルトラマンA』に、そんなオチの話があった。ゲスト出演した蟹江敬三の演技が語り草だった。ヒッピーふうの彼が、蓄牛慰霊場の鼻輪をくすねて腕輪にしてしまい、祟りがあるぞと言われても迷信だと聞かず、そうしたら腕の輪をはめた部分から牛の毛が生え始め、全身に広がり顔もすっかり牛の牛人間となってしまう。
 最後はウルトラマンAの力で元に戻り、反省して農場で働くようになる。そこではオリーブなどを作っていて、こういう実を食べていれば肉が無くてもよく、健康的で殺生しないでよいと農場主は言うだった。
 これも、石堂淑郎脚本と山際永三監督だった。前に話題に出した『君待てども』と同様、円谷プロのSFだけどオカルトという話は、この二人によるものが多い。

 ということで、アボカドを買ってきたのだが、売っているのはメキシコ産ばかり。他の産地のものは、あるのだろうか。 



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# by ruhiginoue | 2015-11-17 17:40 | 芸能
 ドリフターズの加藤茶が、かつて大病をしたことについて、食生活に問題があったと言っていた。離婚で自暴自棄ぎみだったため暴飲暴食をしていて、毎日のように朝からステーキを食べていたそうだ。
 にもかかわらず、その後も肉の多い食事をするので、医師に注意されたらしい。巷では、四十歳も年下の女性と再婚するからだと批判もされていた。もう高齢者の域なのに、若い人と同じ食生活になっていて、しかし新しい若い妻が可愛くてしょうがなくて、作ってもらった料理を大喜びで食べてばかりいるらしいという噂だった。また「どうせ彼女は財産目立ての結婚だから、夫が早く死ねばいいと思ってるのだろう」などと悪口を言われていた。

 それで妻は作る料理の内容を一変させた。すると加藤茶は、食事が野菜ばかりになってしまい、唯一の肉は野菜スープの中に入っていたソーセージだけで、もっと肉が食べたいとブログでぼやいていたことが話題になった。
 もしも加藤茶が亡くなったら、食事とは関係なくても後妻が叩かれてしまうだろう。そうしたら、いかに夫に尽くしてきたかという本を出版することだが、これも百田尚樹に書いてもらったら訴訟沙汰だろうから、別の人に依頼するか、自分で書くべきだろう。

 このことで思い出したが、離婚と再婚ということ以前に、加藤茶は昔から肉が好きだと言っていた。かなり小さいころの記憶だが、はっきりと憶えている。
 ドリフターズの人気が出て、当時はまだ志村けんがいなくて荒井注がいて、とても若い加藤茶は「すわしんじ」(当時すわ親二)と一緒にブルース リーの真似をしたり、「ちょっとだけよ」「おーおー珍し珍し」「どうも、すんずれいしました」などのギャグを披露したりしていた。
 それくらい昔、平成生まれの人など大化の改新と変わらないくらいに感じるであろう当時から、加藤茶はドリフターズで最も人気があり、だから幼児向けの本にもよく登場していて、そのさい自己紹介の中で好きな食べ物は「肉」だと明言していた。

 あの石原裕次郎もそうで、あれでは病気になっても仕方がないと石原慎太郎に言われていたから、兄と弟が逆だったら良かったのにと、冗談と本気と両方で言われる。

 なんでこんな話題が気になるかというと、よく肉が大好きで食べてばかりいる人が病気になっているのを目撃しているからだ。これについて、次回の話題とする。


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# by ruhiginoue | 2015-11-16 17:39 | 芸能

ピアノと住宅事情

 前にブーニンの話をしたが、彼は日本で人気が出て来日したさい「赤旗まつり」のステージにもゲストとして出演し、得意のショパンを演奏していたことも思い出す。曲は『英雄』だったが、これはポーランドがロシアに抵抗する曲だと司会がわざわざ解説していたので、当時ソ連共産党と険悪になっていた日本共産党の当てこすりではないかとも言われた。
 
 また、ブーニンは日本の電子ピアノが便利だと買って帰ったとも言われてる。これは住宅事情の良くない日本ならではの発明であった。

 七十四年に、川崎の団地で、小さい女の子が近所迷惑もおかまいなしでピアノを弾き、そのくせ子供の母親がよく「いま子供が昼寝をしているので静かにしてください」という張り紙をドアにしていたから、同じ棟の別の部屋に住む男性が怒っていて、ある時ついにブチ切れてしまい、文句を言いに押しかけて、その勢いで子供と母親を殺害してしまった。
 そのあと自殺を図ったが死にきれず逮捕され、死刑判決を受けたものの精神状態から責任は問えないという鑑定結果となり、裁判をやり直すべきということになったけれど、もともと自殺するつもりだった被告は死刑判決を受け容れ確定させてしまったので、どうすることもできず執行されない死刑囚として最長記録となったのだった。
 これは「ピアノ殺人事件」と騒がれ、住宅の貧困な日本を象徴するものとされた。

 そんなこともあったので、電子ピアノに弱音ペダルというものが作られ、まさに「必要は発明の母」ということだった。
 高橋悠治はプロだが自宅にはピアノが置いてないことを誇りとしているそうで、確かに、ピアノはかさばるし音も大きいし高価だから、公共の場に誰でも好きな時に使えるくらい置いてあることがノ望ましいのではないか。
 高橋悠治と一時は喧嘩したが仲良しであった武満徹は、売れないころにピアノを欲しくても買えなかったので、音が聞こえる家を訪ねて使わせてくれと頼んでいたそうで、その話を聞いた黛敏郎が大いに同情し、自分のピアノをあげてしまったという。
 
 昔、自分が持っていたピアノはバイトして古いものを買ったので弱音ペダルが無く、転居するとき運賃ばかりかかるから処分して買い換えようと思ったが、しかしペダル二つのピアノはもう中古でも売れないと言われ、それで近所の小さい女の子にあげてしまった。
 高低調整の椅子と、カヴァーは暖簾と同じで冬用とは別に夏用のレースの涼し気なものと両方をつけて。年に一度は調律をとご両親に念を入れたのだが、そこがやや心配だった。
 本人と同じくらい喜んでいたのがその子のおばあちゃんで、孫娘はお稽古に通うようになったが、おばあちゃんも見よう見まねで弾いていると言う。良かったと思った。
 ただ、前にもこの話をしたと思うが、そのさいのおばあちゃんの話は、ピアノ教室にもお茶や生け花などのような流派があると思っていて、そのつもりで「ヤマハ」と言うのだった。時々思い出して可笑しくなってしまうことだ。


# by ruhiginoue | 2015-11-15 18:50 | 音楽
 FMでピアノ曲を放送してるのを聴いていたら、演奏はキーシンだと言っていた。彼は今でも第一線で活躍していて、意識していなくても実によく聴く。
 彼は八十年代後半の十四歳の時に「神童」と騒がれて注目されたが、演奏会を開くため来日したさい日本のマスコミのインタビューで神童と呼ばれていることについて問われると否定したが、それは謙遜ではなく「ぼくはもう子供じゃない」だった。生意気でなかなか良いとも思ったが、よく考えると、彼としてはあくまで演奏で評価してほしいということだったのではないか。
 なぜなら、彼はなかなかの美少年だったので、そこに目をつけた日本のレコード会社がアイドルのように扱ったから、これに反発したと思えるからだ。

 その当時、日本ではブーニン人気で沸いていて、十九歳だがチョビ髭を生やしているユーモラスな風貌も受けてアイドル扱いだったが、そこへキーシンが登場すると、演奏を聴いた人がみな、キーシンのほうがずっと上手だと言い、しかもずっと容姿端麗だと話題になったのだった。
 その後、ブーニンは夜中にピアノを弾いて迷惑がられアパートから退去させられてしまい、外貨をたくさん稼いだのにソ連当局が冷遇していると不満を言って亡命してしまった。このとき実は母親のことで事情があったというのが本音だったようで、「ブーニンのマザコン亡命」とマスメディアに揶揄されてもいた。
 これについてキーシンは、深夜に弾くのが悪いと批判していたが、キーシンはブーニンと違いソ連当局から厚遇されていて、一戸建ての自宅をあてがわれていたらしい。それだけ実力に差があって、ブーニンは日本だけでアイドルとして大人気だった。
 だから、その後、ブーニンは海外ではリサイタルに出演しても前座扱いで、一方キーシンは国際的なスターとして活躍するということだったようだ。ただ、あの当時から、変にアイドル扱いしてはブーニンにとってもよくないという指摘が日本でもあり、もっとしっかりしていたキーシンは自ら否定して見せたということではなかったか。

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# by ruhiginoue | 2015-11-14 18:30 | 音楽