中上健次と橋下徹
2012年 02月 01日
芥川賞と「不機嫌会見」で話題の小説家・田中慎弥は、その作品が大江健三郎と中上健次に共通する要素があると指摘されると、その二人の作品は影響を受けそうな気がするので読まないようにしてきたと言ったそうだ。
かつて中上健次は、新人のころに大江健三郎の作風と似ていると言われたため、「東大生作家」と売り出された大江健三郎とは違った個性を出そうと、自分が被差別地域の出身であることを前面に押し出した。
すると、主人公が出自を憎悪するあまり家族を皆殺しにしたうえ知らない土地へ出て行く願望をもったり、実際に家族を皆殺しにする結末が何度も書かれた。
同じように、主人公が周囲を片っ端から殺してゆく結末は、筒井康隆が何度も書いているが、こちらはギャグなので動機に深みがなく、だから浅田彰が、中上健次は一流だが筒井康隆は二流と評し、筒井を怒らせていた。
この、中上健次の小説のような、出自を強烈に憎悪して否定しようとする願望は、橋下徹に顕著だ。彼も被差別地域の出身で、父親はヤクザであった。
ここから抜け出すために、彼は勉強熱心でスポーツにも励み、いつも学校では優等生だったと伝えられる。こんな動機であるから、弁護士になっても弁護士の使命(弁護士法 第一条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする)には、無関心どころか逆のことばかりしていて、法曹人なのに中学社会科公民の基礎すら解らないと指摘もあった。
そして、彼は自分の家族は大事にしているようだが、自分と家族のことしか考えていないと批判され、怒ってしまい、批判した人の容姿など無関係の話を持ち出して中傷誹謗で応じ、家族にたしなめられて撤回したというお笑いである。
つまり、彼は出自を憎悪し、そこから自分だけ抜け出して、出自を蔑む者たちに迎合し一緒になって、自分が抜け出した出自を蔑んでいるのだから、差別を憎み平等な社会を志向したりはしない。
これはたいへん醜いことなのだが、それを感じ取れない者も少なくない。だから橋下が支持されているのである。
例えば、橋下が弁護団を誹謗した光市事件である。ここで彼は、勘違い発言した自分の非を認めながらも、政治家になれば特別扱いされるだろうと期待した通りになっているし、橋下に誹謗された被害者の安田弁護士に対する別件の強引な逆転有罪判決を最高裁が支持しているから、20日に予定されている最高裁判決も、被告の死刑は確実であろう。
この背景にあるのが、橋下と同じ感覚を持つ大衆の存在である。
光市事件の犯人の少年は、父親から暴力を受け続け、脳に損傷があり、精神もゆがみ、母親も同じ暴力により精神に異常を来したうえ自殺していて、母の無惨な死体を見てしまってから少年の言動がおかしくなったと近所の人たちが証言している。
こうした生い立ちから異常な事件を起こしているので、そんな人間になってしまった犯人も気の毒と言えるし、父親の責任も追及されるべきではないか。
しかし、父親と縁を切ってひたすら上昇志向という橋下は、反感を持つだけであろう。そして橋下を支持する者たちは、反橋下に侮辱で応じている。
つまり、不幸な生い立ちの者に同情するのは自分が同じだからで、被害者のような家庭を知らないから、幸福な家庭を壊された憎しみが理解できないのだ、と。これはネット上にも、すぐ目につくほどたくさんある。こうした嫌らしさの根底にあるのは、自分だけ良ければという発想である。
また、政治家としての橋下について、どうして彼が支持されるかとの問題がある。以前ここで、極左の異常な教師が暴虐をふるった現実を体験に基づき実名告発したところ、だから左翼教師の追放が必要なので橋下が正しいとか言うのではなく、そんな悪い教師が担任だったから、告発したほうも悪くなっているに違いないという嫌がらせのコメントがあった。
このような嫌がらせをする心理にあるのが、社会批判とは自己責任を世の中に転嫁することだと安易に決めつけ、批判するより橋下のように自分だけ良くなるように考えるべきだとの発想だ。
もちろん、自分も限られた中で精一杯の努力すべきなのに、社会のせいにしてばかりいるのは醜い。しかし、自分だけという橋下式は同じくらい醜いものだ。それを感じ取れない鈍感な人が結構いて、橋下に取り込まれているのだ。
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かつて中上健次は、新人のころに大江健三郎の作風と似ていると言われたため、「東大生作家」と売り出された大江健三郎とは違った個性を出そうと、自分が被差別地域の出身であることを前面に押し出した。
すると、主人公が出自を憎悪するあまり家族を皆殺しにしたうえ知らない土地へ出て行く願望をもったり、実際に家族を皆殺しにする結末が何度も書かれた。
同じように、主人公が周囲を片っ端から殺してゆく結末は、筒井康隆が何度も書いているが、こちらはギャグなので動機に深みがなく、だから浅田彰が、中上健次は一流だが筒井康隆は二流と評し、筒井を怒らせていた。
この、中上健次の小説のような、出自を強烈に憎悪して否定しようとする願望は、橋下徹に顕著だ。彼も被差別地域の出身で、父親はヤクザであった。
ここから抜け出すために、彼は勉強熱心でスポーツにも励み、いつも学校では優等生だったと伝えられる。こんな動機であるから、弁護士になっても弁護士の使命(弁護士法 第一条 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする)には、無関心どころか逆のことばかりしていて、法曹人なのに中学社会科公民の基礎すら解らないと指摘もあった。
そして、彼は自分の家族は大事にしているようだが、自分と家族のことしか考えていないと批判され、怒ってしまい、批判した人の容姿など無関係の話を持ち出して中傷誹謗で応じ、家族にたしなめられて撤回したというお笑いである。
つまり、彼は出自を憎悪し、そこから自分だけ抜け出して、出自を蔑む者たちに迎合し一緒になって、自分が抜け出した出自を蔑んでいるのだから、差別を憎み平等な社会を志向したりはしない。
これはたいへん醜いことなのだが、それを感じ取れない者も少なくない。だから橋下が支持されているのである。
例えば、橋下が弁護団を誹謗した光市事件である。ここで彼は、勘違い発言した自分の非を認めながらも、政治家になれば特別扱いされるだろうと期待した通りになっているし、橋下に誹謗された被害者の安田弁護士に対する別件の強引な逆転有罪判決を最高裁が支持しているから、20日に予定されている最高裁判決も、被告の死刑は確実であろう。
この背景にあるのが、橋下と同じ感覚を持つ大衆の存在である。
光市事件の犯人の少年は、父親から暴力を受け続け、脳に損傷があり、精神もゆがみ、母親も同じ暴力により精神に異常を来したうえ自殺していて、母の無惨な死体を見てしまってから少年の言動がおかしくなったと近所の人たちが証言している。
こうした生い立ちから異常な事件を起こしているので、そんな人間になってしまった犯人も気の毒と言えるし、父親の責任も追及されるべきではないか。
しかし、父親と縁を切ってひたすら上昇志向という橋下は、反感を持つだけであろう。そして橋下を支持する者たちは、反橋下に侮辱で応じている。
つまり、不幸な生い立ちの者に同情するのは自分が同じだからで、被害者のような家庭を知らないから、幸福な家庭を壊された憎しみが理解できないのだ、と。これはネット上にも、すぐ目につくほどたくさんある。こうした嫌らしさの根底にあるのは、自分だけ良ければという発想である。
また、政治家としての橋下について、どうして彼が支持されるかとの問題がある。以前ここで、極左の異常な教師が暴虐をふるった現実を体験に基づき実名告発したところ、だから左翼教師の追放が必要なので橋下が正しいとか言うのではなく、そんな悪い教師が担任だったから、告発したほうも悪くなっているに違いないという嫌がらせのコメントがあった。
このような嫌がらせをする心理にあるのが、社会批判とは自己責任を世の中に転嫁することだと安易に決めつけ、批判するより橋下のように自分だけ良くなるように考えるべきだとの発想だ。
もちろん、自分も限られた中で精一杯の努力すべきなのに、社会のせいにしてばかりいるのは醜い。しかし、自分だけという橋下式は同じくらい醜いものだ。それを感じ取れない鈍感な人が結構いて、橋下に取り込まれているのだ。

by ruhiginoue
| 2012-02-01 17:26
| 文学