人気ブログランキング | 話題のタグを見る

井上靜に関するblog(網誌)です。下記の著書を購入して支援を頂けたら助かります。下記の他は別人や海賊版なので買わないでください。Googleが誤情報を混ぜているので信じないで下さい。アマゾンのコメント欄に嘘の書評が書いてあるのは過日倒産した出版社の宣伝です。この種の輩に対抗する意味でも何卒よろしくお願いいたします。品切れのさいはご容赦ください。


by ruhiginoue

光市母子殺害事件は「社会のせいに決まっている」

 光市母子殺害事件について、社会に責任転嫁して犯罪者を庇ってはいけないと言う人がいるけれど、「社会のせいに決まっている。だから裁判になっている。そんな当たり前のこともわからない奴らがいる」という指摘があった。
 まったくその通りなのだが、常識のはずだと思っていたら解らない人もいるので、ここで当たり前の話をしてみる。
 そもそも裁判とは、社会の中で責任の分担が問題になったときに、それを解決するためにあるものだ。
 ただし、既に責任の分担については決まっていて、社会のせいにする余地がないこともある。例えば民事裁判で、単純に借金を返さなくて訴えられた者が、「それは不景気のせいだから、自分ではなく政府の責任だ」と言ったら「ふざけるな」となる。
 しかし、そんな単純な問題だけではすまないことのほうが多い。借りた金を返さない人よりも、返せなくなる金を貸した側が悪いことだってあるし、それついて金を貸す商売の免許を与えたり監督したりする役所が不正とか怠慢により責任を問われるべきときもある。
 まして刑事裁判は、その分野自体が、関わった当事者だけの問題ではすまない性質なので、だから公的に対処するのであり、そこで社会と人とで責任負担の割合をどうするか決めるのだ。
 だから社会のせいであることは前提であり、あとはその範囲がどの程度かという問題である。
 つまり、社会のせいにしてはならないのは、裁判でなくても解決できることだけであり、裁判でないと解決できないことかどうかを見定めるのは、とても困難だ。そして、現に裁判が成立しているなら、責任の範囲はともかく、何らかの形で社会のせいであることは、間違いないのである。
 
 
人気ブログランキングへ1日1クリック投票をお願いします
by ruhiginoue | 2012-02-23 22:45 | 司法