「黛敏郎?そんな先輩が1コ上にいたなあ」
2013年 02月 27日
最近は会っていないので健在か不明なのだが、その人とは、たまたま近所に住んでいたから知り合い、最初に音楽を習った。勉強そのものではなく仕方について訊いてばかりだった。その点では、学校の音楽の教師が話にならないので、有益だった。
その人は高齢だったから、行っていた当時はまだ「上野の音楽学校」と言われていた時期だった。これが美術学校と合併して東京芸術大学の音楽学部と美術学部になる。
そこに彼は入学したものの、病気になって退学してしまったという。そして回復するまでが大変だったため、音楽学校にいたころの記憶の多くが薄れてしまったのだが、憶えていることもあって、その中には、どうしてそんなことが記憶に残っているのかというような思い出もあるそうだ。
その最たるのが黛敏郎のことだそうで、彼が売れてきたとき「そういえば、そんな先輩が1コ上にいたなあ」と思ったそうだ。なんでかというと、服装が派手だったから。
まあ、芸術家にはお洒落な人がよくいるものだが、お洒落にもいろいろあって、その中に派手好みというのがある。かつて『題名のない音楽会』の司会をしていた黛敏郎の服装を見れば、昔からそうだったというのも納得である。
そんなことを思い出したのだが、そこでさらに連想したのが、黛敏郎が作曲した報道番組の音楽。ニュースの内容は大したこと無いのに、始まりだけ無駄に重厚なのが面白かった。
1日1クリック投票をお願いします
その人は高齢だったから、行っていた当時はまだ「上野の音楽学校」と言われていた時期だった。これが美術学校と合併して東京芸術大学の音楽学部と美術学部になる。
そこに彼は入学したものの、病気になって退学してしまったという。そして回復するまでが大変だったため、音楽学校にいたころの記憶の多くが薄れてしまったのだが、憶えていることもあって、その中には、どうしてそんなことが記憶に残っているのかというような思い出もあるそうだ。
その最たるのが黛敏郎のことだそうで、彼が売れてきたとき「そういえば、そんな先輩が1コ上にいたなあ」と思ったそうだ。なんでかというと、服装が派手だったから。
まあ、芸術家にはお洒落な人がよくいるものだが、お洒落にもいろいろあって、その中に派手好みというのがある。かつて『題名のない音楽会』の司会をしていた黛敏郎の服装を見れば、昔からそうだったというのも納得である。
そんなことを思い出したのだが、そこでさらに連想したのが、黛敏郎が作曲した報道番組の音楽。ニュースの内容は大したこと無いのに、始まりだけ無駄に重厚なのが面白かった。
by ruhiginoue
| 2013-02-27 19:33
| 音楽





