死刑は国家による殺人だと言っていた奥崎謙三
2014年 03月 30日
記録映画の名作『ゆきゆきて神軍』の原一男監督が著書で述べていたが、この映画の主人公である自称神軍平等兵・奥崎謙三は、自らの体験から戦争責任を追及する中で、かつて軍隊で暴虐の限りを尽くし部下を何人も死に追いやった元上官を殺害しようかと考え、その場面を撮影してくれないかと監督に相談したそうだ。
これについて、記録映画はどこまで許されるのかと監督は悩んだという。よく、本当の殺人場面を撮影したという恐怖映画仕立ての記録映画は、だいたいヤラセの嘘である。
その一方で、実現はしなかったが、できれば撮影したかったらしい場面もあり、その最たるものとして、奥崎が報道によって知った幼児殺害事件のことがあった。子供を殺された母親が悲しみと怒りと憎しみから「犯人を死刑にして欲しい」と言っていたので、その母親を奥崎が訪ね「死刑は国家による殺人だから駄目だ」と、戦争体験者の立場から説いて聞かせる、という場面を撮って欲しいというものだった。
つまり、彼は自ら殺人をも厭わないが、殺人事件の犯人を殺すことには反対していて、それは、権力を笠に着て人を死に追いやって責任も取らない者は許せないからテロというより怨恨による暴力も辞さないとしながら、しかし、それゆえ、どんなに許せない犯罪者でも死刑にすれば国家による殺人を容認してしまい、これは戦争にもつながるから駄目というわけだ。
この発想は、過酷な体験をした者が狂信的になってのものだが、そもそも「疑わしきは罰せず」とか「犯罪者を百人逃しても一人の無辜を罰するなかれ」などといった法律の精神の基となっているものだ。
だから、この発想が弱すぎる日本が国際世論から批判される現実とは、ようするに、日本では、真に苦労した人たちがないがしろにされているということであり、このところ世間で支配的な死刑の維持推進とか刑事事件での厳罰化というのは、実は逆に世の中の厳しさを知らない甘ったれた人たちの考えということだ。
これでは社会が衰退して当然で、ほんとうに嘆かわしい。
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これについて、記録映画はどこまで許されるのかと監督は悩んだという。よく、本当の殺人場面を撮影したという恐怖映画仕立ての記録映画は、だいたいヤラセの嘘である。
その一方で、実現はしなかったが、できれば撮影したかったらしい場面もあり、その最たるものとして、奥崎が報道によって知った幼児殺害事件のことがあった。子供を殺された母親が悲しみと怒りと憎しみから「犯人を死刑にして欲しい」と言っていたので、その母親を奥崎が訪ね「死刑は国家による殺人だから駄目だ」と、戦争体験者の立場から説いて聞かせる、という場面を撮って欲しいというものだった。
つまり、彼は自ら殺人をも厭わないが、殺人事件の犯人を殺すことには反対していて、それは、権力を笠に着て人を死に追いやって責任も取らない者は許せないからテロというより怨恨による暴力も辞さないとしながら、しかし、それゆえ、どんなに許せない犯罪者でも死刑にすれば国家による殺人を容認してしまい、これは戦争にもつながるから駄目というわけだ。
この発想は、過酷な体験をした者が狂信的になってのものだが、そもそも「疑わしきは罰せず」とか「犯罪者を百人逃しても一人の無辜を罰するなかれ」などといった法律の精神の基となっているものだ。
だから、この発想が弱すぎる日本が国際世論から批判される現実とは、ようするに、日本では、真に苦労した人たちがないがしろにされているということであり、このところ世間で支配的な死刑の維持推進とか刑事事件での厳罰化というのは、実は逆に世の中の厳しさを知らない甘ったれた人たちの考えということだ。
これでは社会が衰退して当然で、ほんとうに嘆かわしい。
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by ruhiginoue
| 2014-03-30 22:01
| 社会