自衛隊が叛乱の映画 続き
2014年 04月 11日
『亡国のイージス』は、原作だと艦長が叛乱を起すのに、それではイージス艦を撮影させてもらえなかったので、副長が反乱を起して艦長を殺害するというように変えたそうで、自衛隊が叛乱を起こす話だと撮影に協力しないという話を前にした。
それより昔の70年代にも、絶対に撮影の協力が受けられない映画の最たるものとして『皇帝のいない八月』があり、ここではその中心となる役を渡瀬恒彦が面白がって熱演したため、監督の山本薩夫は、市民を代表して対峙する役の山本圭(監督の甥)が、押され気味になってしまったと著書で述べていた。
ここで渡瀬恒彦が熱弁をふるうセリフは三島由紀夫の「檄」を真似たような内容で、そういう思想をからかっているのだが、真迫の演技によって狂信者ぶりが凄いことになり、映画を観た当時の荒船官房長官が、こんな異常な自衛官がいてたまるかと怒ってしまい、映画の宣伝に一役買った。
いたらヤバいという架空の話であるから、大人は判断できる。心配なのは子供で、真に受けてしまうことがあるから、自衛隊が神経質になっているのは政治サスペンスより怪獣映画だ。90年代の映画『ゴジラVSモスラ』で、自衛隊の戦車部隊がゴジラではなくモスラを攻撃してしまい、別所哲也ふんする主人公がやめろと怒鳴り、その小さい娘もやめてと叫ぶのだが、やめない。逃げ遅れた人がいると知った指揮官が、やむを得ずという感じで攻撃中止命令を出す。
これに怒った子供が防衛庁に電話をかけて「モスラはいい怪獣だからね、攻撃しちゃ駄目だよ」と真面目に言ってくるから、「あれは映画だから本当の話じゃないんだよ」と懸命に説明しなければならず、ほんとうに困ってしまったらしい。それで、善玉の怪獣は攻撃しないという条件で協力するという。
映画は森林伐採の問題に軽く触れているだけだが、プログラムでは音楽の伊福部昭が「森林は大地が呼吸するための肺も同然なので」と解説していて、映画より面白かった。伊福部昭はもともと農林生物学を専攻していて、箕作秋吉とかボロディンと同様に理科系の作曲家であった。
そして怪獣が暴れるのは自然の怒りとして音楽も表現していたが、音楽が変わってから、自衛隊の協力を受ける都合もあり、怪獣は「有事」となってしまった。
これではつまらない。政治的な問題や自然の問題とは別に、子供がどうして怪獣が好きなのかというと、大人より強いからだ。普段、大人から抑圧を受けているからだ。
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それより昔の70年代にも、絶対に撮影の協力が受けられない映画の最たるものとして『皇帝のいない八月』があり、ここではその中心となる役を渡瀬恒彦が面白がって熱演したため、監督の山本薩夫は、市民を代表して対峙する役の山本圭(監督の甥)が、押され気味になってしまったと著書で述べていた。
ここで渡瀬恒彦が熱弁をふるうセリフは三島由紀夫の「檄」を真似たような内容で、そういう思想をからかっているのだが、真迫の演技によって狂信者ぶりが凄いことになり、映画を観た当時の荒船官房長官が、こんな異常な自衛官がいてたまるかと怒ってしまい、映画の宣伝に一役買った。
いたらヤバいという架空の話であるから、大人は判断できる。心配なのは子供で、真に受けてしまうことがあるから、自衛隊が神経質になっているのは政治サスペンスより怪獣映画だ。90年代の映画『ゴジラVSモスラ』で、自衛隊の戦車部隊がゴジラではなくモスラを攻撃してしまい、別所哲也ふんする主人公がやめろと怒鳴り、その小さい娘もやめてと叫ぶのだが、やめない。逃げ遅れた人がいると知った指揮官が、やむを得ずという感じで攻撃中止命令を出す。
これに怒った子供が防衛庁に電話をかけて「モスラはいい怪獣だからね、攻撃しちゃ駄目だよ」と真面目に言ってくるから、「あれは映画だから本当の話じゃないんだよ」と懸命に説明しなければならず、ほんとうに困ってしまったらしい。それで、善玉の怪獣は攻撃しないという条件で協力するという。
映画は森林伐採の問題に軽く触れているだけだが、プログラムでは音楽の伊福部昭が「森林は大地が呼吸するための肺も同然なので」と解説していて、映画より面白かった。伊福部昭はもともと農林生物学を専攻していて、箕作秋吉とかボロディンと同様に理科系の作曲家であった。
そして怪獣が暴れるのは自然の怒りとして音楽も表現していたが、音楽が変わってから、自衛隊の協力を受ける都合もあり、怪獣は「有事」となってしまった。
これではつまらない。政治的な問題や自然の問題とは別に、子供がどうして怪獣が好きなのかというと、大人より強いからだ。普段、大人から抑圧を受けているからだ。
by ruhiginoue
| 2014-04-11 22:47
| 映画





