「永遠の0」と「ひめゆりの塔」と「二百三高地」と「大日本帝国」と「連合艦隊」
2015年 01月 10日
桑田佳祐が政府を皮肉ったともとれる歌を紅白歌合戦で披露したと話題になった一方で「永遠の0」なんて映画に主題歌を提供してるじゃないかとも言われた。
例えば、さだまさし。彼も「二百三高地」にも「ひめゆりの塔」にも主題歌を提供している。
これは商売だから仕方ないという話の続き。
「二百三高地」の主題歌は、予告編によって死を美化し戦争肯定という印象を持たれただけだという指摘もある。たしかにそんな印象もうける。また、「二百三高地」の予告編には、映画で使われていないショスタコーヴィチの交響曲が流れていて、少々滑稽な感じもする。
また、「二百三高地」は映画自体も反戦ではないかという見方がある。これは続けて同じ脚本家と監督によって製作された「大日本帝国」「海ゆかば 日本海大海戦」にも言われることだ。乃木大将や東條英機を国難に殉じた悲劇の人として擁護しているから一見は戦争美化だけど、その裏には、ほんとうの責任者は天皇だという主張がこめられていた。これは脚本を書いた笠原和夫が意図したことであった。
ここで笠原和夫は、「二百三高地」「大日本帝国」など戦争映画の脚本を書くにあたり、日本が悲惨な戦争の連続となったのは、そもそも明治維新によって出来上がった政治体制に問題があり、その中心は天皇だから戦犯を追及しても本質に迫れないと考えていた。これは彼が随筆でも述べている。
これについて疑問を感じる人もいる。戦前の日本が極めて好戦的だったのは事実であるが、戦争の悲劇の原因は天皇制よりむしろ官僚の縦割りが行き過ぎて、全体を統括できる機能が無かったせいだという見方だ。
ただし、その統括する機能が天皇という大日本帝国憲法に問題があったとする主張もあるが。
この官僚制の問題は、『誤算の論理』で児島襄が指摘しており、日本の軍制で陸主海従』なのか『海主陸従』なのかで、陸海軍が延々とイニシアティブ争いをしているという、他国には類例のない政争が太平洋戦争に負けるまで続いた。これは世界的に見ても類例がほとんどないという。
そして、「二百三高地」を東映が制作してヒットしたら、対抗して東宝は、むこうが陸軍ならこちらは海軍だと言って「連合艦隊」を制作した。この映画では、戦争は組織の誤算という設定となっていて考証として児島㐮が参加していた。
これは、泥臭いことを好む東映と、洗練さを好む東宝との、体質の違いによるものだろう。
ところが例の「おすぎ」は雑誌に、「連合艦隊」は「二百三高地」がヒットしたから真似して戦争映画を作っただけで何の主張もないとし、こんな映画は要らないと書いたうえ、テレビに出たさい「大日本帝国」は戦争の悲惨さを描いてはいるがその責任を追及していないと非難していた。
これは、賛否は別にして、映画が何を主張しているのか、ということ自体を理解できていないのだ。このあたりから、おすぎの映画評には不信感を持ち始めた。そして、さらに確信が深まることになる。
1日1クリック投票をお願いします
例えば、さだまさし。彼も「二百三高地」にも「ひめゆりの塔」にも主題歌を提供している。
これは商売だから仕方ないという話の続き。
「二百三高地」の主題歌は、予告編によって死を美化し戦争肯定という印象を持たれただけだという指摘もある。たしかにそんな印象もうける。また、「二百三高地」の予告編には、映画で使われていないショスタコーヴィチの交響曲が流れていて、少々滑稽な感じもする。
また、「二百三高地」は映画自体も反戦ではないかという見方がある。これは続けて同じ脚本家と監督によって製作された「大日本帝国」「海ゆかば 日本海大海戦」にも言われることだ。乃木大将や東條英機を国難に殉じた悲劇の人として擁護しているから一見は戦争美化だけど、その裏には、ほんとうの責任者は天皇だという主張がこめられていた。これは脚本を書いた笠原和夫が意図したことであった。
ここで笠原和夫は、「二百三高地」「大日本帝国」など戦争映画の脚本を書くにあたり、日本が悲惨な戦争の連続となったのは、そもそも明治維新によって出来上がった政治体制に問題があり、その中心は天皇だから戦犯を追及しても本質に迫れないと考えていた。これは彼が随筆でも述べている。
これについて疑問を感じる人もいる。戦前の日本が極めて好戦的だったのは事実であるが、戦争の悲劇の原因は天皇制よりむしろ官僚の縦割りが行き過ぎて、全体を統括できる機能が無かったせいだという見方だ。
ただし、その統括する機能が天皇という大日本帝国憲法に問題があったとする主張もあるが。
この官僚制の問題は、『誤算の論理』で児島襄が指摘しており、日本の軍制で陸主海従』なのか『海主陸従』なのかで、陸海軍が延々とイニシアティブ争いをしているという、他国には類例のない政争が太平洋戦争に負けるまで続いた。これは世界的に見ても類例がほとんどないという。
そして、「二百三高地」を東映が制作してヒットしたら、対抗して東宝は、むこうが陸軍ならこちらは海軍だと言って「連合艦隊」を制作した。この映画では、戦争は組織の誤算という設定となっていて考証として児島㐮が参加していた。
これは、泥臭いことを好む東映と、洗練さを好む東宝との、体質の違いによるものだろう。
ところが例の「おすぎ」は雑誌に、「連合艦隊」は「二百三高地」がヒットしたから真似して戦争映画を作っただけで何の主張もないとし、こんな映画は要らないと書いたうえ、テレビに出たさい「大日本帝国」は戦争の悲惨さを描いてはいるがその責任を追及していないと非難していた。
これは、賛否は別にして、映画が何を主張しているのか、ということ自体を理解できていないのだ。このあたりから、おすぎの映画評には不信感を持ち始めた。そして、さらに確信が深まることになる。
1日1クリック投票をお願いします
by ruhiginoue
| 2015-01-10 12:46
| 映画