『華氏451度』と『火星年代記』の読書について
2016年 11月 23日
あることをきっかけに中学の同級生のことを思い出した。彼がブラッドベリの小説『華氏451度』を読んだという話をしていた時、その筋を追っているだけで物語についてほとんどわかっていないのではないかと思ったものだった。
そして、彼はどんな小説を読んでも理解できないでいて、ただ暇をつぶしているだけであることが、その話から判った。それでも楽しいのなら良いかもしれないが。
それはともかく、後に自分でも『華氏451度』を読んだのだが、その前にトリフォー監督の映画化を観ていて、少々違った印象だった。
この物語は、読書が禁止されている世界が舞台で、主人公は焚書の仕事をしていたが、たまたま本の面白さを知って密かに読書するようになる。これについて、原作だと言論弾圧という印象であったが、映画化では読書が他人の考えに惑わされて自分を見失うものだという禁止の理由に説得力を持たせているような印象だった。
この読書に否定的な印象は原作からの他律的なもので、映画化で強まったけれど監督がとくに意図したというほどではないような感じもする。つまりもともと原作にあったことだ。
それに、ブラッドベリの小説でもう一つ有名なのが『火星年代記』だが、ここでは最後に主人公が自ら書物を燃やしてしまう。「わたしは、いま、生き方を燃やしているのだ」と。
これは核戦争で破滅した地球から火星に逃れ、地球と決別する決意をしたから、地球から持ち込んだ本を燃やしてしまい、続いて地球の地図も火に投げ込む。
あの、ショーペンハウエルの警告「読書とは他人に考えてもらうこと」を連想するが、それとも少し違い、『華氏451度』では「大事なのは人間の考えたことで、それを忘れないように書いておくのだ。本はただの紙だ」という趣旨の言葉が出てくる。
それで、考えたことについてどうなのか、ということになり、権力が読ませないように燃やすこともあれば、自分で読まないように燃やすこともある。
そんな感じがした。しかし、あの同級生のように暇つぶしで充分楽しいという人もいる。
by ruhiginoue
| 2016-11-23 16:11
| 文学





