勉強の苦手な人に教育へ口出しさせるな
2017年 04月 09日
小学校低学年の当時、もっとも嫌いな科目は算数と音楽だった。なぜなら記号が苦手だったからだ。なんでこんな書き方をわざわざするのかと不可解だったことが原因だ。意義がわからなければ受け容れにくいものだ。
これを学校の教師に質問しても、とにかく授業でやることだという返答しかなかった。たまたま教師のめぐりあわせが悪かったのかと思ったら、他の学校に行っていた人に訊くと、同じようなものだったそうで、どこも大体そうではないかと言われた。そうでない例外的な教師に出会った人は少数の幸運な人なのだろう。
また、小学校の理科で地球も太陽もそのほかの星も宇宙にあるという話なので、では「宇宙はどこにあるのか」という質問をしたら「無限」だという教師の答えだった。
そんな答えでは何も学校で教師に教わる必要がない。SFアニメでも観ればいい。最初に「無限に広がる大宇宙」とナレーションがあったりする。
さらに、高校の数学で、担当の教師に質問していると「おまえは大学に行って数学を専門にしたりフィールズ賞を獲ったりしたいのか?今度の試験で赤点にならなければいいんじゃないのか」と言われたが、これでは単位を取るためだけで面白くない。
ところが、アイザック=アジモフの本を読むと、宇宙がどこまで続くかは解らないと書いていた。それは、大陸の真ん中にいても人間の大きさならその先に行って海があるなどを知ることも可能だが、蟻だったら無理だ、というのと同じで、宇宙に比して人間の大きさでは無理ということだ。
これなら納得だった。少なくとも学校の理科の教師よりは、ちゃんとした説明だった。
そして音楽の記号も、伊福部昭の本を読むと、これは楽譜に記載するためだと書いてあった。わざわざ記号にしたり外国語まで使用するが、そうやって共通の表現を決めて使用すれば、他人に伝えることが容易で正確になり、外国人でも解かる。これは録音が無かった時代にはもっと重要だった。
これなら納得だ。ただ授業で習うのだから憶えなさいという教師より、ちゃんとした説明だ。
とにかく、学校で習うことも納得できないから親しめないということが多いし、苦手というのも個人的な体験からの偏見だったりする。
もちろん、全体的に勉強が好きでない人なら、特にめんどくさいと感じる科目に嫌悪感を抱くということもある。
例えば、曽野綾子が数学の特に難しくないものを、学校に無用だ自分も必要じゃなかったとかギャーギャー言っていたが、ただ手前が苦手だっただけという情けない話だろう。
それと同じで、百田尚樹も漢文と中国の悪口とこじつけて学校の授業からなくせと喚いているが、ただ学校で苦手だっただけだろう。
勉強ができなくて小説家になった人が、できる人の邪魔をしてはいけない。
それに、小説で食えるならそれで満足していればいい。先日、歌手の宇多田ヒカルがタクシーに乗っているとき発声のウォーミングアップをしていたら、彼女だと気づかない運転手に歌手志望かと言われたことが話題だったが、アイザック=アジモフはタクシーに乗っているとき「運転手しながら小説を書いている。SF作家になりたい」と言われ「SFはやめときな。食っていけないよ」と忠告したら「でもアイザック=アジモフは食ってますぜ」と言われたそうだ。
あと、フィールズ賞数学者の広中平祐は、八十年代に時の中曾根総理から教育改革について意見を求められたら「スペインに優秀な学者が少ないのは、フランコ政権時代に大臣や官僚たちが内政にも外交にも口を出せないので教育に口出したからだ」と凄い皮肉のようなことを言っていた。
たしかに、独裁政治は教育に干渉するものだが、これは同時に、教育にしか口出せなくなるということでもある。
そのうえ、独裁政権が有名人を利用したら、その人実は勉強の苦手な人で、なのに教育に口出しということになるから、とても困ったことになるのだ。
by ruhiginoue
| 2017-04-09 20:51
| 学術