稲田防衛相の「続投」という喩え
2017年 07月 08日
稲田朋美防衛相は内閣改造で交代する可能性が高いと言われているが、週刊誌の報道によると彼女は周囲に「もう一期やりたいわ。外務大臣でもええねんけど」(『週刊文春』7月13日号)と言ったそうだ。
しかし、防衛大臣をしっかり務めあげたうえで「防衛以前に重要なのは外交だから次は外相をやりたい」と言うならいいが、そうではなく、防衛相がちゃんと勤まらないのに外相「でもいい」というのだから、仕事も政治も解っていないわけだ。
どうせまた、出かけるときにどんな服を着ていこうかということばかり考えているのだろう。
そして、九州の死者も出ている大水害に消防と警察とともに自衛隊も出動して救援活動しているとき、防衛省に大臣をはじめ三役が誰もいない時があり、そのとき稲田防衛相の外出は公務ではなかったというのだから大顰蹙である。選挙の問題発言があって辞任どころか更迭だろうというのに職務を全うすると居座り、その直後にこれである。
その前から国会での虚偽答弁などがあり、もうとっくに辞めていてもおかしくなかったのだが、安倍総理が「オトモダチ人事」と皮肉られるように庇っていた。
そんな大臣を「続投」させてきたのが悪いと、色々な多くの人たちが言ったり書いたりしているが、これが引っかかる。「続投」は野球の投手が振るってなくても続けさせることから転じての表現であり、もともと喩え話だった。
ほんとうは「留任」だろう。打たれても打たれても投手交代させないので点を取られてばかりいるから、これは投手より監督の責任であるというように、失態ばかりで仕事がお粗末の稲田防衛相を更迭せず留任させてきた安倍総理の責任という話の流れで「なのに続投させて」と表現するなら喩えとして意味があるけれど、そうではなく他の人についても一般的に、ただ辞めないというだけで「留任」でいいところでも「続投」と表現していることがよくあり、気になってしまう。
つまり「続投」が無条件に相応しいのは稲田防衛相に限ってのことだ。
これは前にも触れた、選挙に「立候補」するのを「出馬」と表現しているのと同じだ。競争するとか昔の戦いに赴くこととか、喩えることに具体的な意味があって候補者があえて言うならともかく、そうでなければ候補者が馬になったみたいで変な感じがする。Twitterでどうしても一文字はみ出すとでもいうのでなければ、ちゃんと「立候補」と表現すべきだ。
どうも、喩えだったものが独り歩きして、本来の表現が無視されたうえ、喩える意義まで失われてしまっている、という言葉の問題を感じる。
by ruhiginoue
| 2017-07-08 20:19
| 政治