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by ruhiginoue

「大正十二年九月一日」(黒澤明 『蝦蟇の油-自伝のようなもの』)

 黒澤明『蝦蟇の油-自伝のようなもの』より

 大正十二年九月一日

 この日は、中学二年の私には、気の重い日だった。
 何故なら、夏休みが終わった翌日で、普通の学生なら、みんな、やれやれまた学校が始まるのかと、うんざりする、二学期の始業式の日だったからだ。
 その始業式を終えて、私は上の姉に頼まれていた洋書を買いに京橋の丸善へ廻った。
 ところが丸善はまだ店を開いていない。
 これには、私はますますうんざりして、午後また出直そうと家へ帰った。
 この丸善の建物は、その二時間後には、無残に崩壊し、その残骸の写真は、関東大震災の恐ろしい一例として世界の注目を集めることになる。
 私は丸善が店を開いていたら、どうなっていたか、と考えざるを得ない。
 二時間の余裕があったのだから、姉に頼まれた洋書を捜すための時間を見込んでも、丸善の建物につぶされていたとは思えないが、東京の中心を焼き尽くした大火にとりまかれ、どうなっていたかわからない。
 後略


 闇と人間

 前略 
 しかし、恐怖すべきは、恐怖にかられた人間の、常軌を逸した行動である。
 下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人たちは、恐ろしいデマゴーグの俘虜となり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る。
 経験の無い人には、人間にとって真の闇というものが、どれほど恐ろしいものか、想像もつくまいが、その恐怖は人間の正気を奪う。
 どっちを見ても何も見えない頼りなさは、人間を心の底からうろたえさせるのだ。
 文字通り、疑心暗鬼を生ずる状態にさせるのだ。
 関東大震の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である。
 私は、髭を生やした男が、あっちだ、いやこっちだと指差して走る後を、大人の集団が血相を変えて、雪崩のように右往左往するのをこの目で見た。
 焼け出された親類を捜しに上野へ行った時、父が、ただ長い髭を生やしているからというだけで、朝鮮人だろうと棒を持った人達に取り囲まれた。
 私はドキドキして一緒だった兄を見た。
 兄はニヤニヤしている。
 その時、
 「馬鹿者!!」
 と、父が大喝一声した。
 そして、取り巻いた連中は、コソコソ散って行った。
 町内の家から一人ずつ夜番が出ることになったが、兄は鼻の先で笑って、出ようとしない。
 仕方ないから、私が木刀を持って出て行ったら、やっと猫が通れるほどの下水の鉄管の傍へ連れていかれて、立たされた。
 ここから朝鮮人が忍び込むかも知れない、と云うのである。
 もっと馬鹿馬鹿しい話がある。
 町内の、ある家の井戸水を飲んではいけないと云うのだ。
 何故なら、その井戸の外の塀に、白墨で書いた変な記号があるが、あれは朝鮮人が井戸へ毒を入れたという目印だと云うのである。
 私は惘れ返った。
 何をかくそう、その変な記号というのは、私が書いた落書きだったからである。
 私は、こういう大人達を見て、人間というものについて、首をひねらないわけにはいかなかった。

 岩波書店 P97~P106



by ruhiginoue | 2017-09-01 20:51 | 映画