スカトロジーと朝まで生テレビ
2018年 01月 13日
先日、病人や老人の施設や病院での排泄の問題について、大人たちが深刻な問題として語っているのを傍で聞いていた子供がスカトロジーと受け止めて笑ったが、それは子供だから仕方ないけど、大人のくせに同じように笑う人がいて、注意されてもダメだったから、しょうがない人なので絶交したという話をした。
ただし大人でもあくまで下ネタとして認識していて、かつ、どうしても可笑しくなってしまうという自嘲自虐な話なら、これはそういうこともまあアリで、笑っていいというか笑うべきなのだろうが、そうではなく、深刻な問題として嫌なこと困ったこととして、ひとが真面目に語っているのに抑制できないとしたら全くダメだ、という指摘があった。
これは今は亡き中島らも「明るい悩み相談室」の「通夜の席で笑いだしそうになって困る」と同じだ。もともと形式ばった儀式が滑稽なので、そういうのは我慢するものだとわかっているけど我慢できなくなってしまうことがある、ということで当人でなくても理解できることだ。
しかし、笑っていけない場合と区別できないのでは困る。
それで思い出したのは、その人があるテレビ番組を見ないで誤解した話をよくしていたことだ。
これは田原総一朗が司会をしている「討論」番組だ。あれはもちろんカッコ付きの討論で、真面目なものではない。真面目なものなら、もっとマシな司会者とパネリストであるはずだ。
これはついこのあいだも「新春討論5時間」と題して放送され、見た人たちが怒っていた。他人の話にすぐ口をはさんで勝手に話しだす者がいるだけでなく、それを司会の田原が止めないどころか田原自身がもっとも大きな声で口をはさみ滅茶苦茶な独自情報とか持論とかを喚き散らす。これでは討論ではないし、出ている人の中には真面目に話そうとする人が時々いて、その人がいつも気の毒になる。
だから、見たら腹が立ってしまったという視聴者が多い。そんな番組だと知っている人は、もともと田原の討論番組なんて、くだないし時間の無駄だし精神衛生によくないから見ないほうがいいと言う。

こんな番組について、その排泄物の話を子供みたいに面白がって笑う大人は「だから自分もくだらないと思う」と言うのではなかった。
では「そこが面白い」と言うことか。それなら、スカトロジーと同じで悪ふざけとして許される楽しみ方であるが、そうでもなかった。彼は興味がないので番組をみたことがないそうだ。
彼は、どんな人が何を言うかと番組を試しに見てみたら不真面目な内容だったと言う人に対して「なら真面目に議論するなら良いのか」と言い「ハァ~(社会問題とか真面目な話が)好きだねえ~」と嘲りケッケッケッと嫌らしく嗤っていた。
こういうことだから、笑っていけないときまでも笑う人なのだろう。
by ruhiginoue
| 2018-01-13 12:00
| 雑感





