かつて野坂昭如のオカルト番組批判に賛同して一緒に抗議していた大槻義彦教授は、すっかりタレント化してテレビのCMにまで出る始末だった。手当たり次第に科学的根拠が無いという決まり文句で、それ自体がギャグの様相を呈していた。
そもそも、野坂昭如がテレビ番組に怒ったのは、戦争の犠牲になった子供の霊を呼び出して喋らせるという不謹慎な内容だったからだ。実際に「霊能者」宜保愛子がアンネ=フランクの霊を呼び出したとして話した内容がいいかげんで、戦争体験のある者としては誰だって我慢ならなかったからだ。
これと似たようなことは、幸福の科学の大川隆法が勝手なことをしまっくていて、そこに政治性があって人身攻撃までするから批判されている。そうした反社会性を帯びたものでなければ、死者の霊と話ができるという人の話は面白いし、それだけなら問題ではないと野坂昭如も言っていたように、目くじらを立てなくてもいい場合が多いだろう。
しかし、大槻教授はタレント化するに従い「片っ端から非科学的」がエスカレートし、まるで差別糾弾が「言葉狩り」に転嫁していくのと酷似していた。
それとは違い真面目だと謳われていたのが安斎育郎教授であるが、その著書について内容が可笑しいという話を東大でされた体験を前に医療裁判の話で紹介したとおり、自分の守備範囲でないというだけで否定するなど、かなり問題のある言動をしている。
そして、やはりテレビに出てタレントふうのパフォーマンスもしていたが、なにより「知的資源の無駄遣い」という言葉を使い、先輩風を吹かせるというか権威者ぶるというか、ちょっとした好奇心まで頭ごなしに否定する姿勢に疑問を感じざるを得なかった。わかりきったことだといわれていても一応は疑ってみる姿勢は科学に限らず必要だし、自ら探求したうえで間違いだと判ったのであれば、成果はなくてもその過程に意味があるはずだ。
さらに左巻健男とか菊池誠といった人たちが騒ぎ始めたが、この人たちについては、ここで改めて言わなくても既に色々な人が色々と言っている。
そして、何をもってホンモノか、ニセとは何か、という定義も定まっていないのに「ニセ科学」と喚く滑稽な風潮が見受けられるようになった。ここには自分の尺度に合わないことにとりあえず否定の烙印を押しているだけの単純さが目立つ。
しかし単純であることには意味がある。素人むけに本などを売ろうとするから、これに合せなければならない。
また、ニセ科学批判本を買わされてしまう人は、もともと科学の本を読まない人だろう。なぜなら、そもそも科学の本を読んで自分の頭で考え何が正しいかと判断するのであれば、ニセ科学批判の本は要らないのだから。
しかも、もともと科学に疎い人は、その批判が正当であるかの判断ができない。そうなると単純化され煽り説得するようにされたら、鵜呑みにしてしまう。これでは、ニセ科学に騙されるのと構造が一緒である。
もちろん、正しい知識と判断は必要だけど、ことさらニセ科学と騒ぎ、あなたは騙されると脅すようにして本を売りつけるは一種のコンプレックス商法だ。科学的な間違いを話す人を擁護してもいけないが、無知の劣等感を植え付けてそこにつけ込み丸め込む手口にひっかかり買わされるのでは、バカにされながらカモにされるということだ。
つまり、ニセ科学批判の本は、もともと知識や判断力がある人にとっては無用であり、逆の人にとってはむしろ有害であるとさえ言えるものだ。
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そもそも、野坂昭如がテレビ番組に怒ったのは、戦争の犠牲になった子供の霊を呼び出して喋らせるという不謹慎な内容だったからだ。実際に「霊能者」宜保愛子がアンネ=フランクの霊を呼び出したとして話した内容がいいかげんで、戦争体験のある者としては誰だって我慢ならなかったからだ。
これと似たようなことは、幸福の科学の大川隆法が勝手なことをしまっくていて、そこに政治性があって人身攻撃までするから批判されている。そうした反社会性を帯びたものでなければ、死者の霊と話ができるという人の話は面白いし、それだけなら問題ではないと野坂昭如も言っていたように、目くじらを立てなくてもいい場合が多いだろう。
しかし、大槻教授はタレント化するに従い「片っ端から非科学的」がエスカレートし、まるで差別糾弾が「言葉狩り」に転嫁していくのと酷似していた。
それとは違い真面目だと謳われていたのが安斎育郎教授であるが、その著書について内容が可笑しいという話を東大でされた体験を前に医療裁判の話で紹介したとおり、自分の守備範囲でないというだけで否定するなど、かなり問題のある言動をしている。
そして、やはりテレビに出てタレントふうのパフォーマンスもしていたが、なにより「知的資源の無駄遣い」という言葉を使い、先輩風を吹かせるというか権威者ぶるというか、ちょっとした好奇心まで頭ごなしに否定する姿勢に疑問を感じざるを得なかった。わかりきったことだといわれていても一応は疑ってみる姿勢は科学に限らず必要だし、自ら探求したうえで間違いだと判ったのであれば、成果はなくてもその過程に意味があるはずだ。
さらに左巻健男とか菊池誠といった人たちが騒ぎ始めたが、この人たちについては、ここで改めて言わなくても既に色々な人が色々と言っている。
そして、何をもってホンモノか、ニセとは何か、という定義も定まっていないのに「ニセ科学」と喚く滑稽な風潮が見受けられるようになった。ここには自分の尺度に合わないことにとりあえず否定の烙印を押しているだけの単純さが目立つ。
しかし単純であることには意味がある。素人むけに本などを売ろうとするから、これに合せなければならない。
また、ニセ科学批判本を買わされてしまう人は、もともと科学の本を読まない人だろう。なぜなら、そもそも科学の本を読んで自分の頭で考え何が正しいかと判断するのであれば、ニセ科学批判の本は要らないのだから。
しかも、もともと科学に疎い人は、その批判が正当であるかの判断ができない。そうなると単純化され煽り説得するようにされたら、鵜呑みにしてしまう。これでは、ニセ科学に騙されるのと構造が一緒である。
もちろん、正しい知識と判断は必要だけど、ことさらニセ科学と騒ぎ、あなたは騙されると脅すようにして本を売りつけるは一種のコンプレックス商法だ。科学的な間違いを話す人を擁護してもいけないが、無知の劣等感を植え付けてそこにつけ込み丸め込む手口にひっかかり買わされるのでは、バカにされながらカモにされるということだ。
つまり、ニセ科学批判の本は、もともと知識や判断力がある人にとっては無用であり、逆の人にとってはむしろ有害であるとさえ言えるものだ。
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by ruhiginoue
| 2015-09-01 20:27
| 学術